浅草橋門 ここから36見附めぐりを開始する

浅草橋門跡碑

JR総武線の浅草橋駅は、人形の町と衣料品の問屋街で知られている。 この駅から少し南に歩くと、神田川に架かる浅草橋がある。

この橋を渡ったところに浅草橋門があったが、現在は全くその面影はなく、橋の手前に浅草見附跡の石碑が立つのみである。

浅草橋門は奥州街道や日光街道に繋がる門で、江戸の北方防衛の要であったという。 またこの門を利用するのは武士や庶民で、将軍が日光や上野寛永寺に出向くときは、隣の筋違橋門を利用したという。

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浅草見附跡

浅草橋北詰、右側歩道脇に立つ石碑。 江戸切絵図を見ると(次の筋違橋門のページ参照)、実際の浅草橋門は橋を渡った先にあったようだ。

北関東や東北への要路を押さえる役割を持つが、浅草寺や吉原方面への往来が盛んであったという。

また明暦大火の際、小伝馬町牢獄の囚人を解き放ち、この囚人たちが浅草門に殺到した。

しかし見附の番人は脱走と勘違いして門を閉じてしまい、そのため一般市民も含めて2万人近い死者を出したそうである。

浅草見附跡
明暦大火とは

明暦3年1月18日から1月21日(1657年3月2日~3月4日)の3日間にかけ、本郷、小石川、麹町の3か所から次々と出火し、江戸市街の約6割を焼き払った大火事。 江戸城天守閣もこの時に焼失し、以降再建されることはなかった。

この火事をきっかけに江戸の都市改造が行われ、防火線として設置された広小路は、現在も上野広小路として地名が残っている。

 

そもそも浅草橋に江戸城の門があったとは全く知らなかったが、今回いろいろ調べると、「へぇ~!」と思うような所に門があったことを知った。

まずはこの浅草橋門から出発である。 神田川 つまり外堀沿いに反時計回りに歩き、外堀をめぐり終えれば、内堀も同じように反時計回りに歩き、最後は江戸城天守閣を目指す。

東京で生まれ育ち、大阪に転勤した2年間を除いた35年近くを都心で勤めていたが、おそらく今回の歩き旅を通じて、東京の新たな発見が数多く出てくることであろう。

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