東海道 第1宿 品川宿(2) 品川宿は昼も夜も大繁盛の歓楽街

日本橋から品川宿までの歩き旅の後半戦。 JR品川駅からの品川宿の様子である。

東海道は日本橋から始まるが、多くの旅人の出発点は品川宿であった。 そのため品川宿は旅人たちの宿泊地というより、江戸の玄関口として繁盛したという。

現在は下町商店街のような雰囲気を持つ町となり、東京の下町で育ったので懐かしさを覚えながら歩くことができた。

品川 日の出
コースデータ
  • 日 付  : 2025年1月15日
  • 宿間距離 : 日本橋~品川宿 2里(7.9Km)
  • 日本橋から: 累計 2里(7.9Km)
  • 万歩計  : 25,402歩

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

品川宿入り口

箱根駅伝でお馴染みの八ツ山橋を過ぎると、京浜急行の踏切である。

現在泉岳寺~新馬場間の立体交差工事が行われ、この北品川駅横の踏切も数年後には撤去されるだろう。

京浜急行

踏切を渡った所に、品川宿入り口を示す「東海道八ツ山口」道標が立っている。

品川宿入口
品川宿は昼も夜も大繁盛!

品川宿は東海道の江戸の玄関口として賑わっただけではない。 海に面していたので、潮干狩りに舟遊び、江戸前の魚を使ったグルメ、さらに御殿山は桜の名所として、江戸中から庶民が遊びにくるレジャーランドだった。

そして夜になれば東海道を出入りする旅人の、今風にいえば歓送迎会が開かれた。

この歓送迎会に欠かせなかったのは酒であり、酒があれば女となる。 この娼婦役を担ったのが多くの飯盛女で、「北の吉原、南の品川」と呼ばれるほどで、一番の得意客は芝の僧侶と薩摩藩の武士だったそうだ。

現在の北品川宿の様子

品川宿を流れる目黒川を境に、北側を北品川宿、南を南品川宿と呼ばれていた。

その北品川宿に入ると、日本橋からの銀座通りや第一京浜の景観と異なり、道も狭まって下町の商店街といった雰囲気へと変化する。

品川宿

問答河岸跡の碑

「問答河岸」という標柱が立つ。 名の由来は、3代将軍「徳川家光」が品川の東海寺を訪れた際、沢庵和尚と禅問答をしたことに由来する。

徳川家光が「 海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に 」と問いを発したのに対し、沢庵和尚は「 大軍を率いても将(小)軍と言うが如し 」と応えたそうだ。

問答河岸

本陣跡と品川橋(境橋)

品川宿本陣跡の碑が立つ。 品川宿は北品川宿と南品川宿に別れ、それぞれに本陣があった。 しかし南品川の本陣は早くに閉まり、結局本陣は北品川の1軒のみとなったそうだ。

この奥に広がる聖蹟公園が本陣の跡地で、井戸が復元されていた。

品川宿本陣跡

品川浦船溜まりと鯨塚

街道を左にそれ、品川浦船溜まりと鯨塚などを訪れる。 昔の海岸線であるが、街道から僅か100mほどなので、いかに品川宿が海に近かったかが実感できる。

品川浦船溜まり 過去と現在が混在する

品川駅周辺に立ち並ぶ高層ビルを背景に、屋形船や釣り船が並ぶ船溜まり。

古くから残る風景と現代の風景が混在し、どこか懐かしさを感じるフォトスポットである。

品川浦船溜り
品川浦船溜り

鯨塚

江戸時代に品川沖に鯨が迷い込み捕獲され、11代将軍徳川家斉が上覧するほどの騒ぎになった。

この鯨は最終的に油を搾り、残された頭の骨を埋めて供養したそうだ。

鯨塚
鯨塚

御殿山下台場跡

浦賀に黒船が来航し、国防に備えて造られた台場の一つで、御殿山を切り崩して土地を造成したそうだ。

現在は台場小学校校門脇に再現され、品川沖灯台のレプリカが設けられている。(灯台の実物は愛知の明治村に移築されている)

御殿山下台場跡

南品川宿に入る

品川橋は、北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川 に架かる橋で、往時は「境橋」と呼ばれる木橋だった。

品川橋

品川橋を渡ると南品川宿に入る。 沿道の電柱には「旧東海道」と表示されている。

旧東海道

同じ東海道の「浜松宿」から贈られたという、「品川宿の松」が植えられている。

品川宿

江戸時代に野菜などを売る市場が開かれたことが由来の青物横丁。 街灯は「さやえんどう」でも模しているのか? 「青物横丁」の名にちなんでいるのだろう。

青物横丁

品川寺 地蔵菩薩が旅人を見守ってきた

品川寺と書いて「ほんせんじ」と読む。 江戸六地蔵の一番目の地蔵菩薩が、宿場の人々や旅人を見守っている。

品川寺

海雲寺の「平蔵地蔵」

海雲寺境内には「平蔵地蔵」という、少し悲しい物語を持つお地蔵さんが祀られている。

平蔵地蔵
平蔵地蔵物語

江戸末期、鈴ヶ森の番人をしていた3人の乞食がいた。 その中の一人である平蔵は、ある時大金を拾ったが、正直に落し主を探して返却。 お礼も受け取らなかった。

これを聞いた仲間の2人は、「拾ったお金を山分けすれば乞食をやめられた」と怒り、平蔵を小屋から追い出して凍死させてしまう。

それを知った落し主は平蔵を哀れみ、遺体を引き取り手厚く葬り、石の地蔵尊を立てて供養した。

京浜急行の青物横丁にある、この海雲寺の先ぐらいまで品川宿は続いていたようだ。

何故か坂本龍馬が立っていた!

品川宿の先を流れる立会川に架る浜川橋まで歩こうと、品川宿からもう少し歩を進めてみた。

再び街道を外れ、すぐ近くの運河を見にいく。 勝島運河という名で、空が広々して気持ち良い。

京浜運河

浜川橋(泪橋) 

品川宿の先にある鈴ヶ森の処刑場に移送される罪人を、秘かに見送りに来た家族が、ここで涙を流して別れを偲んだということで、別名「涙橋」とも呼ばれている。

浜川橋

それにしても昔の刑場近くには、「泪橋」と名の付く橋をよく見かけ、日光街道の日本堤あたりにある泪橋の先は、小塚原の処刑場である。

今回の歩き旅はここで終了として、近くの京浜急行の立会川駅から帰途に就いた。

どうしてこんな所に?

立会川の駅まで来ると、「えぇ~! どうしてこんなとこに・・・」と思わず声が出そうになった。

高知・桂浜に立つ坂本龍馬像に比べ小さいようだが、ここにも立っていてびっくりである。

坂本龍馬像

この近くにあった土佐藩の鮫洲抱屋敷に築かれた浜川砲台に、竜馬が20才の頃に江戸警護のために滞在していたそうだ。

思わぬ場所で坂本龍馬とご対面して驚いたが、次回はここ京急立会川駅近くに再現された浜川砲台を訪れ、それから横浜を目指そう。

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