四谷門 江戸城危機の際の将軍家逃走路

市ヶ谷を出て四谷門を目指す。

JR市ヶ谷駅前から200mほどオフィスなどが建ち並ぶ道を行くと、再び外堀の土塁が現れ、土塁上を進むとJR四ツ谷駅となり、江戸城の四谷門跡に至る。

この門は半蔵門から甲府・信州に至る甲州街道が通り、内側には紀州・尾張・彦根藩や旗本など、親藩・譜代の大名屋敷があり、江戸城防衛の要衝の地であった。

また江戸城有事の際、旗本たちが将軍を守って甲府城に向かう退路でもあった。

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甲州街道は軍用道路だった?

日本橋から長野県の下諏訪までを結び、中山道と合流する甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道の一つである。

しかし参勤交代でこの街道を利用する大名家は少なく、他に重要な任務を持った道であった。 その重要な任務とは、江戸城危急の折りに、将軍家直轄の甲府城に避難するための逃走路である。

江戸城が攻め落とされそうになった場合、将軍は半蔵門から脱出し、門のそばに屋敷を構える服部半蔵と伊賀者に守られ西に逃走する。

半蔵門を出た将軍を守るため、番町に住む旗本たち一番組から六番組までの「大番組」が敵と一戦を交え、さらに四谷見附には尾張徳川家や紀州徳川家が守りを固めている。 新宿まで来れば鉄砲百人組が、追撃してくる敵を迎え撃ち、八王子に入れば千人同心を引き連れて甲府へとひた走る。

このように背後を守られつつ、徳川家直轄の甲府城に逃げ込めば、あとは時を見て富士川の舟運や身延道を利用して一気に南下。 駿府城に入り体制を整えて反撃に移る・・・

このような想定をしていたようで、半蔵門から四谷見附、新宿などに、逃走時の背後を固める仕掛けが施されていたようだ。

四谷門に向けて土塁上を歩く

市ヶ谷駅から四谷に向け、オフィス街のような所を歩く部分もあるが、基本的に外堀沿いに続く土塁上を歩くことができる。

松の木の利用価値

土塁上には桜の木が植えられているが、斜面には松の木が多い。 この松の甘皮を剥がし、粉にすると食用になるそうである。

籠城時に兵糧攻めにあった時の代用食や燃料、建築資材として、築城時には松を植えたそうだ。

土塁上の濃い緑の中を進む。

外濠公園

四谷門

現在の四谷には、四谷見附橋が2本架かっている。 一つは新宿通りが走る大きな橋で、交通量も多いメインの橋である。

もう一本はJR四ツ谷駅の裏側(市ヶ谷側)に架かる、新四谷見附橋という細い橋である。

四谷門の位置

「現在地」と記された道は、四ツ谷駅裏手の市ヶ谷寄りにある細い橋、つまり新四谷見附橋の上である。

この絵を見て判るように、江戸時代は橋ではなく、土塁でお堀は遮られていた。

江戸時代の枡形門跡と、現代の地図を重ね合わせた地図が、主婦会館前の小さな広場にあった。

四谷門

見附跡の石垣

市ヶ谷からの土塁は四ツ谷駅手前で終り、四ツ谷駅の麹町側に出る。 ここに上の枡形門跡の図で、高麗門の右側の石垣が残されている。

四谷見附
四谷見附

もう一方の石垣は、四ツ谷駅の駅舎の下に保存と説明されているが、見ることができるのか判らない。

フランス様式の四谷見附橋

現在の新宿通りが通る四谷見附橋は大正2年に架設され、現在の橋は平成3年に架けかえられたものである。

東宮御所(現迎賓館)が近いので、橋の欄干やガス灯などのデザインも凝った橋となっている。

四谷見附橋

赤レンガの土台部分は大正時代に架けた橋の遺構かと思われる。 地上に出た地下鉄丸ノ内線の四谷駅にも、明治時代の甲武鉄道の御所トンネルが現役で活躍している。

四谷見附橋

真田堀 関東大震災の瓦礫で埋め立てた

外堀は市ケ谷と四ツ谷間で埋め立てられ、四ツ谷駅や上智大学の真田堀グラウンドとして利用されている。

終戦直後、真田堀は瓦礫が投棄されて埋まってしまった。 そこで上智大学が費用を出して埋め立てを行い、東京都から20年間無償貸与を受けたそうだ。

無償貸与期間が過ぎた現在は、都と有料の借地契約をしているらしい。

真田堀

真田堀の名は、信州上田藩主の真田信之(幸村の兄)が普請を請け負ったことから付けられたものである。

地下鉄丸ノ内線のホームからみると、明らかに堀を埋め立てたことがわかる。

真田堀

地下鉄丸ノ内線四ツ谷駅は、地下鉄のくせにJR四ツ谷駅の上にある地上駅である。 同じ丸ノ内線の後楽園や銀座線の渋谷駅なども、トンネルを抜けると、いきなり地上4階ぐらいの高さで地上に現れる。

東京は平坦なようで、結構複雑な地形をしていて面白い。

浅草橋門跡から総武・中央線沿いに見附跡を歩いてきたが、この四谷見附で線路と別れ、紀尾井町から赤坂見附へと都心に向かう。

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