JR総武線の浅草橋駅から少し南に歩き、神田川の少し手前に浅草見附跡の標柱が立つ。 この標柱を江戸城三十六見附めぐりの出発点として、次の筋違橋門(すじかい橋門)に向かって出発する。
浅草橋門から筋違橋門に向かう柳原通りは、江戸時代から「古着といえば柳原」といわれるほど賑わっていたそうだ。 現在衣料品の問屋街として知られる横山町が近いのも、何か関係しているのだろうか?
訪問日:2014年2月19日
関東郡代屋敷跡と柳原土手
関東郡代屋敷跡
浅草見附跡の石碑を見てそのまま浅草橋を渡ると、右手交番横に「関東郡代屋敷跡」の案内板が立つ。
関東郡代とは、主に関東の幕府直轄領の年貢徴収、治水、領民紛争の処理を行う役で、馬喰町には訴訟のため地方から出てきたものが宿泊する宿が多かったそうである。
土手があった柳原通り
関東郡代屋敷から、西に向かって柳原通りが伸びている。
江戸時代にはこの浅草橋門から、隣の筋違橋門(万世橋付近)まで、約1.3Kmの柳原土手が続き、古着屋や古道具屋が集まり賑わったという。 今風に言えばリユース・リサイクルの世界である。
柳原の土手には、太田道灌により柳が植えられられていたそうで、現在も復元されて小さな柳が植わっている。
江戸切絵図で見る
江戸切絵図で見ると、浅草橋門と郡代屋敷の位置が良くわかる。
また柳原通りには柳の絵が描かれ、「是ヨリ筋違迄ヲ柳原通リト云」と書かれている。
レトロな看板建築が残る
柳原通りを進み、昭和通りを越えた右側に、レトロ感漂う看板建築が残っている。
看板建築とは、関東大震災復興期に現れた建築スタイルで、建物前面はモルタルや銅板で装飾した一見洋風建築。 裏側は木造の和風建築である。 震災後、耐火性向上の目的でもあったようだ。
(注)左端の1軒を除き、緑青の吹いた右側3軒は既に解体された。
桂昌院と柳森神社の福寿狸
太田道灌が勧請した柳森神社
JR山手線のガード手前に柳森神社がある。 室町時代に太田道灌が江戸城の鬼門除けに、多くの柳を植え、京都の伏見稲荷を勧請したそうだ。
境内には富士塚や力石も残っている。 説明版によると、大正時代の力士であった神田川徳蔵とその一派が使っていたもの。 しかしどのくらい重いのかの説明は記されていなかった。
金運を招く「おたぬきさん」
この神社は「おたぬきさん」が有名である。 5代将軍綱吉の母・桂昌院が信仰していた「福寿狸」の別名で、「たぬき=他を抜く」として、立身出世や金運、勝負運にご利益があると、ビジネスマンに人気がある。
しかしこの狸の像は、ユーモラスというより少し不気味な感である。
万世橋と筋違橋門跡
筋違橋は現在の万世橋と昌平橋の間に架けられ、旧交通博物館建物のレンガ壁を突き破るような形で、枡形の筋違橋門が築かれていた。
この筋違橋門は、将軍が上野寛永寺や日光に出向く「御成り道」にあったので、御成門とも呼ばれていた。
都営地下鉄三田線に「御成門」という駅があるが、これは徳川家の菩提寺である芝増上寺裏門の別称である。
万世橋
江戸時代に万世橋はなかった。 少し上流に筋違橋があり、ここの見附を明治5年に取り壊した時に出た石材を、再利用して万世橋を架けたという。
当初は「萬世橋(よろずよばし)」と命名されたが、次第に現在の「まんせいばし」の呼び名が定着したそうである。
旧万世橋駅跡
万世橋から上流のお茶の水側を見ると、赤レンガ建物の上を中央線が走っている。 以前は交通博物館であったが、更のその昔は国鉄の万世橋駅であった。
万世橋の駅舎は辰野金吾による設計で、東京駅と同じように豪華なものだったそうだ。 しかし東京駅や神田、秋葉原などの近隣駅の開業により利用客は減少し、交通博物館を移設して駅は閉鎖された。
筋違橋門跡
上の赤レンガ建物沿いに(川の反対側)、ポツンと案内板が立つが、今は立ち止まって案内を読む人はいない。
筋違橋門と筋違橋は、この案内板の辺りにあり、将軍が上野寛永寺に墓参りに行くときに出入りした門だが、現在はその面影は全くない。
「筋違」の名称は、江戸城から上野寛永寺へ続く御成道と、日本橋からの中山道が交差する場所なので、このような名がついたという。
次は小石川門をめざし、お茶の水から水道橋の駅に向かう。
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