会津若松旅行記(2) 会津武家屋敷と不思議なさざえ堂

さざえ堂

会津若松 2泊3日の旅 最終日。 どうしようかと考えた結果、「美味しい魚が食べたい、美味しい干物も買って帰りたい・・・」ということで、海の方に行くことに決定!

前日行くことができなかった武家屋敷と、飯盛山の白虎隊やさざえ堂を午前中に訪れ、その後いわき市の小名浜漁港を訪れることにした。

旅行日:2024年12月1日~12月3日

今回の旅行の1日目の喜多方 および 2日目の会津若松の様子は、下記を参照願います。

目次

会津武家屋敷 38部屋もあった家老の家

宿をチェックアウト後、最初に訪れた場所は会津武家屋敷。

会津藩の武家屋敷は戊辰戦争で殆んど焼失したが、追手門前にあった家老西郷頼母邸を復元したものを中心に、武家文化に関わる建物が立ち並んでいる。

会津武家屋敷

階段を上り冠木門を潜って中に進むと、立派な表門が立っている。 会津藩家老西郷頼母邸を復元したものである。

会津武家屋敷

表玄関。 邸の正面に位置し、上級武士などのお客様だけが通された玄関で、式台玄関と説明されていた。

会津武家屋敷

家族の部屋だけでなく、藩主などを迎える御成御殿、家臣や女中、使用人などの部屋を含め、何と38部屋もあり、畳の枚数328枚にも及ぶという。

この家老西郷頼母の禄高は1700石だったっそうだ。 幕末の頃の一石は現在価格で約40,000円ほどらしく、年収6800万だったのか?

戊辰戦争の悲劇 西郷頼母一族の自刃

部屋の中に「西郷頼母一族自刃の場」という衝撃的な展示があった。

会津武家屋敷

西郷頼母一族自刃の場

慶応4年(1868) 8月23日。 新政府軍は戸ノ口原で白虎隊などを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下に進攻した。朝の9時頃であった。

夫・西郷頼母や長男の登城を見送った妻の千恵子は、白装束に着替えて親類一同を居間に集め、「子連れでは足手まとい。ここで自刃するのが国に殉じること」と話し、3女(9歳)、4女(4歳)、5女(2歳)の幼い3人の娘を刺して自害。 享年34歳。

そして頼母の母など一族21人が、屋敷で自刃したという。 涙・涙・・・

刀を持った新政府軍の軍人は誰だ?

自刃の場に、抜刀した新政府軍の軍人が立っている。

一族が自刃した直後に西郷邸に突入した土佐藩の中島信行(後に初代衆議院議長)は、死にきれずにうめいている娘を見つける。

彼女は16歳の長女・細布子(たえこ)。 細布子は中島を見て、かすかな声で「敵か?、味方か?」と問いた。 それを聞いた中島が「味方です」と答えると、細布子は安堵の表情で懐剣を差し出して介錯を頼んだのである。 中島は見るに見かね、涙を振って介錯し、辞世の句を持ち帰ったという。

16歳といえば高校1年のJK。 こんなうら若い娘が介錯を頼み、嘘をついてまで武士の情けで介錯した中島。 胸が痛すぎる・・・ 涙腺が緩んでくる・・・ 

逆さ屏風の意味

自刃の場の背後に、屏風が逆さまに置かれている。 「逆さ屏風」である。

人が亡くなった時、安置した遺体の上に魔除けの刀を置くなどの枕飾りと同じ意味合いがあり、悪霊から故人を守るためとも言われているようだ。

このようなことが由縁で、武士や家族が覚悟の自決をするときには、屏風を逆さに置くという作法が生まれたそうだ。

飯盛山の白虎隊 若くして散った少年武士たち

朝一番から胸にズシンとくるものを見てしまったが、次に白虎隊で知られる飯盛山に向かう。

飯盛山へは動く歩道が設けられていた。 自力で階段を上れば良いのだが、どこまで階段が続くのか判らなかったので、有料だが(250円)利用してみることにした。

その結果は? 乗る必要はなかった・・・

飯盛山動く坂道

白虎隊の墓所へ

戊辰戦争での会津若松での戦いといえば、白虎隊の話は有名である。

新政府軍の猛攻に敗れて飯盛山に逃れた白虎隊は、「敵を衝くか、城へ戻り戦うか」の激論を交わしたが、潔く自刃することを選択。 僅か16歳から17歳の会津藩士子弟17名が自刃し、1名は蘇生した。

飯盛山には自刃した16名と、戦死した3名を加えた19名の墓が並んでいる。

白虎隊墓所

自刃しながらも死にきれずに蘇生した唯一の人物、飯沼貞吉(後に貞夫)の墓も少し離れた所にあった。

生きながらえたその後を調べると、逓信省通信技師となり、昭和6年(1931)に76歳で生涯を終えたという。 きっと重たいものを背負って生きたのだろう。

また飯沼貞吉は、上で書いた西郷頼母の妻で、自刃した千恵子の甥にあたるそうだ。

さざえ堂 頭が混乱する2重螺旋構造の建物

白虎隊の墓所近くに「会津さざえ堂」がある。 この名は通称のようで、正式名は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という難しい名である。

お堂の中をぐるぐる渦巻くスロープで上り、そのまま進むといつの間にか下りとなって外に出てしまう。 つまり上りと下りが交わることの無い一方通行で、2重螺旋の構造でできている。

さざえ堂

さざえ堂入口。 入口に鎮座するのは郁堂(いくどう)和尚で、このさざえ堂を考案した僧だという。

さざえ堂

昔はスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、さざえ堂を参拝するだけで三十三観音参りができるといわれていたが、残念ながら明治の廃仏毀釈で観音像は取り外されたという。 

時計回りでぐるぐる上がっていくが、階段ではなくスロープである。 床面には滑り止めの桟が打たれ、階段より疲れずに上がれる。

さざえ堂

たくさんの千社札が貼られた天井が見えると、さざえ堂の頂上である。 ここを越えると下りに転じ、今度は反時計回りのスロープを降り、入口とは反対側にある出口へと導かれる。

さざえ堂

1本のロープを半分に折って捩った(よじった)ような構造かと思ったが、どうも2階建ての渦巻き構造をしているらしい。

つまり上りスロープの床面の裏側は下りスロープの天井。 そして下りスロープの床面の裏は、上りスロープの天井に ???

さざえ堂の構造を考えると頭は混乱してしまうが、建立されたのは寛政8年(1796)だという。 そんな時代に考えついた人も凄いが、建てた職人の腕も凄いものである。

小名浜漁港へ

会津の観光を終え、会津若松からいわき市の小名浜漁港にある「ら・ら・ミュウ」という施設に向かう。

少し遅めの昼食は魚の煮つけを食し、魚介類市場に干物など海産物の買い出しへ・・・

驚いたのは「めひかり」の大きさである。 近くのスーパーで売られる「めひかり」に比べ、何と大きいのか! それに安い! なんと400円!

会津でお酒を仕入れ、さらに美味そうな干物などの魚をたっぷりと仕入れ帰途に就く。 帰宅したらさっそく魚を焼き、酒を飲みながら、今回の旅行を振り返る。 そして食後のデザートは「みしらず柿」。

自宅に戻っても、まだ旅の余韻に浸ることができそうだ。

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