今回は深谷から本庄までを歩こうと、再び赤レンガ風の深谷駅に降り立つ。
朝食を食べようと駅前を探したが、マックとモスバーガーだけがオープンしていた。 深谷とか本庄は良く聞く地名で、もう少し賑やかかと思っていたが ・・・
駅に着いたのが9時50分。 それから朝食を済ませての出発である。 要するに行動開始が遅すぎるのである。 まあ急ぎ旅ではないので、のんびり歩けば良いと歩き始める。
旅行日:2014年11月5日
コースデータ
日付 | 区間 | 宿間距離 | 万歩計 | 地図 | |
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2014/11/5 | 深谷宿~本庄宿 | 2里25町 | 10.6Km | 19.599歩 | Map |
日本橋からの累計 | 21里31町 | 85.8Km | 125,057歩 |
深谷宿を出発
駅前で軽く朝食を済ませ、深谷宿の町並みを再度眺めながら歩きはじめる。
道が緩くカーブする枡形跡に、大きな常夜灯が立つ。 深谷宿の京方出入口である。
本庄宿に向けての街道風景。 痛みの進んでいる家もあるのは残念である。
街道沿いに広がるネギ畑。 恐らく名物の深谷ネギなのだろう。
源平合戦の勝者と敗者の墓を見る
深谷宿と本庄宿の間に、源平合戦の折りに討ち取られた「平忠度(たいらのただのり)」の供養塔と、討ち取った源氏側の武将「岡部忠澄」の墓がある。
清心寺 平家の武将「平忠度」の供養塔
街道から左に折れ、JR高崎線の踏切を越えた所に清心寺がある。 ここに平家一門の武将「平忠度(たいらのただのり)」の供養塔がある。
平清盛の義弟にあたり、一の谷の戦いで源氏方の岡部忠澄と戦い討死した。 享年41歳。
平忠度を討った岡部忠澄の墓
平忠度を討った源氏方の岡部忠澄の墓が、街道を先に進んだ普済寺の近くにある。
岡部忠澄は源頼朝の挙兵で出陣。 その後 源義経配下に入り、一ノ谷合戦で平清盛の義弟である平忠度を討ち取った武将である。
平家物語によると、平忠度は源氏に紛れ込む作戦の最中、源氏は付けていないお歯黒をしていたため見破られ、岡部忠澄に討たれたそうだ。 平忠度は歌人としても優れ、討たれた時に箙(えびら)に和歌を結び付けていたという。
岡部忠澄は討ち取った平忠度の菩提を弔うため、自分の領地に供養塔を建てたという。
高島秋帆 幽囚の地
西洋式砲術創始者の高島秋帆は、幕府により投獄・岡部藩陣屋に幽囚された。 しかしペリーが来航し、近代兵器の必要性から赦免。 幕府の砲術師範を勤めた。
この高島秋帆が幽囚されていた地に、幽囚の地碑が立つ。
街道沿いの全晶寺には、幽囚されていた岡部藩陣屋の長屋門が移築されている。
源勝院 岡部藩安部家 菩提寺
源勝院には、岡部藩を治めた安部(あんべ)家歴代藩主の墓が整然と並ぶ。
百庚申への道
街道を進むと、庚申塔が林立する百庚申と呼ばれる場所に至る。
幕末の万延元年(1860)、騒然とした幕末の世相と、庚申の年にあたる万延元年が重なり、地元有志が造立したと説明されている。
街道情緒漂う百庚申への道。
分岐を左に進む。 分岐点には馬頭観音と中山道古道の説明碑が立つ。
百庚申や滝岡橋に向けて、切通しの細い坂道を下る。
上の写真の分岐点にあった中山道古道の説明碑によると、この切通しは明治期に開削されたもので、それ以前は急峻な坂を下る道筋だったそうだ。
百庚申。 雰囲気のある街道風景である。
滝岡橋
百庚申からの坂を下り、広い畑地の中を進むと滝岡橋である。 昭和3年に竣工し、国の有形文化財である。
滝岡橋を過ぎてしばらく畑の中を進み、左の細い道に入る。 気を付けないと直進してしまいそうだ。
街道風景
本庄市に入り、藤田小学校の向かいに馬頭観音や双体道祖神のような石塔が並ぶ。
こちらは子育て地蔵尊。 他に多くの石仏・石塔が並ぶ。
立派な長屋門だが、白壁が剥げ落ちている。 小川家の長屋門だそうだ。
内野家の長屋門は少し新しい。 再建されたのだろうか?
北国街道もそうであったが、街道を歩くと火の見櫓が多いことに気付く。
国道17号を横切る歩道橋の上から、来た道を振り返ると虹がでていた。 道中では全く雨の兆しなど無かったのだが・・・
本庄宿に到着
中山道交差点という辺りが、本庄宿の江戸方出入口だったようだが、今は面影も何もない。
旧本庄警察署と田村本陣の門
明治16年築の洋風建築が残る。 旧本庄警察署で、歴史民俗資料館として公開されている。
(注) 現在は外観を見るだけで、内部の見学はできないそうだ。
旧本庄警察署入口には、本庄宿の北本陣であった田村家の本陣門が移築されている。
安養院 迫力ある仁王像
立派な山門や仁王門を持つ安養院。 本庄七福神の毘沙門天が祀られているようだ。
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫
明治29年(1896)築のレンガ造りの倉庫は、繭や生糸の保存倉庫として使用された。
昭和の雰囲気を味わう
本庄宿の町並みは宿場の風情というより、昭和レトロの雰囲気を持っているような気がした。
本庄宿の町並みを楽しみ、JR本庄駅から帰路に就く。
本庄の町には蔵などの古い建物も残っていたが、全体的に痛んでいる建物も多いような印象を持った。 土蔵などの維持費用は、行政からの補助も無いようなので、持ち主は大変なのであろう。
次回はこの本庄から新町宿を目指して歩くが、律令制における国名である武蔵を抜け、上野国に入ることになる。
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