東海道第6宿 藤沢宿 源義経の首が流れ着いた藤沢宿

宿駅としての藤沢宿は、相模の国の諸駅の中でも古く、室町時代には白拍子がいて旅人を慰めたりしていたという。

この藤沢宿は東海道や大山道、江の島道、鎌倉道、八王子道など多くの道が集まり、流通の中心地だけでなく、遊行寺や大山への参詣客でも賑わったという。

旅行日:2025年2月17日

藤沢 遊行寺

【藤沢宿 遊行寺】

コースデータ
  • 日 付  : 2025年2月17日
  • 宿間距離 : 戸塚宿 ~ 藤沢宿  2里 (7.9Km)
         : 藤沢宿 ~ 平塚宿  3里半(13.7Km)
  • 日本橋から: 累 計 16里(62.8Km)
  • 万歩計  : 35,430歩

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

戸塚宿を出発

前回終了地点であるJR戸塚駅に降り立ち、西を目指して歩きはじめる。

澤邉本陣跡

最初に現れた澤邉本陣跡碑。 戸塚宿には澤邉家と内田家の、2つの本陣があったという。

本陣跡碑の後ろには、明治天皇行在所跡の碑も立っている。

澤邊本陣跡碑

冨塚八幡宮

源頼義・義家父子が建立したという神社。

長い石段を上がると戸塚の地名の由来となった古墳「富塚」があるというが、体力温存のため石段は上がらなかった。

冨塚八幡宮

戸塚宿 上方見附跡

コンビニ駐車場に、松が植えられた戸塚宿の上方見附跡碑が立つ。 戸塚宿の京方出入口である。

戸塚宿上方見附跡

大坂を上る

保土ヶ谷宿と戸塚宿の間で、権太坂を上り品濃坂で大きく下った。 そして戸塚宿を出ると、次は「大坂」の上りが待っている。 

大坂は一番坂と二番坂があったというが、昭和7年(1932)の改修工事で頂上を削り、下の方を10メートルほど土盛りして、なだらかな長い坂にしたという。

坂の上り口には、庚申塔などの石仏が並ぶ。 左端は最近祀られたようだ。

大坂
大坂

松並木から富士山が眺められたと説明されているが、残念ながら松並木は消滅したようだ。

大坂松並木

お軽勘平 「戸塚山中道行きの場」の碑

大坂を上がりきって国道1号のバイパスに合流。 合流点から少し進むと、「お軽勘平 戸塚山中道行きの場」の碑が立つ。

「仮名手本忠臣蔵」の中、悲劇の最期を遂げる早野勘平と妻・お軽の、「戸塚道行の場」にちなんで作られたそうだが、お軽・寛平の名は知るが、ストーリーはよく知らない・・・

お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

原宿一里塚跡

国道1号は大々的な工事を行っていたが、日本橋から11里の原宿一里塚跡の碑は立っていた。 このような工事で、昔の遺構などは壊されていくのだろう。

原宿一里塚跡

影取町と鉄砲宿

街道沿いの影取町に諏訪神社がある。 昔 神社裏の池に大蛇が棲み、水面に映る旅人の影を食べたことから「影取町」の由来となった。

そして大蛇を鉄砲で撃ち取った猟師が住んでいたことから、この辺りは「鉄砲宿」と云われた。

鉄砲宿

藤沢市に入る

長かった横浜市を抜け、ようやく藤沢市に入る。

藤沢市

遊行寺一里塚跡と江戸方見附跡

藤沢市に入りしばらく進むと、箱根駅伝で知られる遊行寺の下り坂となる。 左右は崖で、切通しに改修して坂を緩やかにしたようだが、昔はかなりの急勾配だったのだろう。

遊行寺坂の途中に日本橋から12里の一里塚跡の説明版が立つ。

遊行寺一里塚跡

さらにその先には、藤沢宿江戸方見附がある。 いよいよ藤沢宿である。

藤沢宿江戸方見附跡尾

遊行寺と小栗判官・照手姫の墓

遊行寺坂を下り江戸見附のすぐ脇に、一遍上人が開いた時宗の総本山である遊行寺がある。

遊行寺

実際は遊行寺の坂の途中から本殿前に入れるのだが、旧東海道の道筋どおり境川の手前で右折して遊行寺の正面に出る。

入口の惣門を潜ると、いろは坂と呼ばれる緩やかな坂を上がる。

遊行寺

本堂は関東大震災後に再建されたそうで、境内には大きな銀杏が枝を広げている。

遊行寺

小栗判官と照手姫の墓

遊行寺の右手から本堂の裏に回ると、長生院、別名「小栗堂」があり、そこには小栗判官と十勇士、および 照手姫の墓がある。

小栗判官とその家臣は藤沢の盗賊宅で毒酒を盛られ、照手姫の機知で遊行寺に逃れたという。

小栗判官の墓

【小栗判官と十勇士の墓】

照手姫の墓

【照手姫の墓】

藤沢宿

藤沢宿入口は、遊行寺坂から右に曲がり、すぐに遊行寺惣門前で左に曲がる鉤の手になっている。

この鉤の手を抜けると藤沢宿交流館があり、高札場が復元されている。

藤沢宿高札場

県道43号沿いには昔ながらの蔵や建物が多少残るが、蒔田本陣は説明版が立つのみであった。

蒔田本陣跡

飯盛女の墓が残る永勝寺

街道から左に少し入った所にある永勝寺には、「飯盛旅籠小松屋」を営んでいた小松屋源蔵が建立した「遊女基碑群」が残る。

藤沢宿には100人近い飯盛女がいたそうだが、このように供養された飯盛女は珍しく、小松屋源蔵の温情が偲ばれる。

飯盛女の墓

義経首洗い井戸と白旗神社

源義経の伝説は各地に残るが、藤沢宿も鎌倉に近いこともあってか、面白い伝説が残されている。

義経首洗い井戸

奥州平泉で自刃した義経の首は鎌倉に送られ、首実検後に片瀬の浜に捨てられたそうだ。

その首は潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着。 それを里人がすくいあげて洗い清めたという井戸が残る。

義経首洗い井戸

義経の首が葬られた白旗神社

義経の首が流れ着いたという話以外に、平泉から一緒に送られた弁慶の首とともに、「夜の間に鎌倉からここまで飛んできて、亀に乗って笑った」という、ぞっとするような話も残っている。

この話を聞いた源頼朝は怨霊を恐れ、義経の首を白旗明神として祀るよう指示したそうだ。

鳥居を潜ると、躍動感あふれる義経と弁慶の像が立つ。 2019年に義経没後830年の記念事業で建てられたそうだ。

義経と弁慶

神社は鎌倉時代以前からあり、相模一の宮の寒川神社からの分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたという。

境内には触れると健康になるという弁慶の力石もある。

白旗神社

藤沢宿京方見附

白旗宿を後にして進み、小田急江ノ島線を越えると藤沢宿京方見附の説明版が立つ。 藤沢宿の京方出入口である。

藤沢宿京方見附跡

義経伝説は様々あり、身代わり説やモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになったといった話が有名である。

この藤原宿の首洗い井戸の話は初めて知ったが、これもなかなか面白い。

しかしテレビは勿論、新聞も無かった時代に、流れ着いた首を拾った村人は、どうして義経だとわかったのだろうか?

あまり現実的に考えると面白さは失せるので、雑学が一つ増えたことにして次の平塚宿を目指そう。

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