東海道 第8宿 大磯宿 明治期は政界の奥座敷と呼ばれた

平安時代末期には、相模国の国府が大磯に置かれていたようだ。 鎌倉時代には鎌倉の近郷宿場として遊女などを抱え、江戸時代になって東海道の宿場町として賑わったという。

大磯は風光明媚で温暖な気候のせいか、明治に入ると政財界要人の別荘が立ち並び、敗戦後の宰相・吉田茂はこの地の別荘を本邸として暮らしている。

現代の大磯はこじんまりとした町で、駅周辺や街を貫く国道1号沿いの商店も決して多くはない。 また大磯ロングビーチで名を馳せたホテルは、最近は活気を失せているような気もする。

旅行日:2025年2月28日

大磯 虎ヶ雨

【 大磯 虎ヶ雨】

コースデータ
  • 日 付  : 2025年2月28日
  • 宿間距離 : 平塚宿 ~ 大磯宿  27町 (2.9Km)
         : 大磯宿 ~ 小田原宿 4里 (15.7Km)
  • 日本橋から: 累 計 20里27町(81.5Km)
  • 万歩計  : 34,283歩

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

平塚宿中心部

前回終了地点であるJR平塚駅に降り立ち、この日は大磯宿から小田原宿を目指す日帰り旅である。

前回は平塚駅近くにある、番町皿屋敷の主人公「お菊塚」を最後に帰宅したが、平塚宿は駅より少し西側から始まるので、今回が実際に平塚宿を訪れることになる。

平塚宿 江戸見附跡

江戸見附は各宿場の江戸側の出入口に設置されたもので、土塁の上に矢来を組んだ構造をしていることから「土居」とも呼ばれる。

平塚宿の江戸見附は左右両方に復元されているが、往時はこんなに道幅は広くなかった。

平塚江戸見附跡

跡地を示す碑はしっかりしている

平塚宿内に入ると、問屋場や脇本陣、本陣などの跡地を示す石柱と、説明版がしっかりと立っている。 しかし残念ながら遺構は全く残っていない。

脇本陣の案内板に続いて現れた、高札場跡の石柱と説明版。

平塚高札場跡

同様に問屋場跡の石柱が歩道上に立ち、神奈川銀行前には本陣跡を説明する碑が置かれている。

大磯宿本陣跡

本陣跡の先で旧道は脇道へ入る。 正面には立ち塞がるように大磯の高麗山が近づいてきた。

旧東海道分岐

平塚の名の由来「平塚の塚」

街道から右に入り、要法寺の隣に「平塚」の名の由来となった「平塚の塚」がある。

平安時代の中期、桓武天皇の孫に当たる平 真砂子(政子)が、京都から東国に下る途中この地で亡くなり、葬った塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こったという。

平塚の塚

平塚宿 上方見附跡

国道1号に合流する古花水橋交差点にある、平塚宿の上方見附跡。 平塚宿の京方の出入口である。

京方見附

高麗山と高来神社。

花水川橋からの高麗山(こまやま)。 高句麗が滅亡し、渡来人が大磯に移り住んだと云われている。

山頂は湘南平と呼ばれ、湘南海岸の眺めは絶景である。

花水橋

街道沿いにある「高来神社」。 「高麗」と「高来」と字が異なるが、昔は「高麗神社」だったが、明治時代の神仏分離令により「高来」に改称したそうだ。

高来神社

高来神社の先に、虚空蔵尊の祠が立つ。

江戸時代にはお堂の前に下馬標が立ち、大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺(現高来神社)に最敬礼して通ったという。

虚空蔵堂

化粧坂と化粧井戸

国道1号から化粧坂と呼ばれる、坂とは思えないような緩やかな坂道に入る。 ”化粧坂”と書いて”けわいざか”と読み、歴史を感じるような良い名前だと思う。

松並木の静かな化粧坂。 坂の途中には「化粧坂一里塚」や「化粧井戸」などを見ることができる。

化粧坂

虎御前の「化粧井戸」

鎌倉時代の仇討ちで有名な、曽我兄弟の兄・十郎の愛妾であった虎御前。 その虎御前がこの付近に住み、この井戸から水を汲んで化粧したという。

化粧井戸

化粧坂一里塚

日本橋から16里の化粧坂一里塚。 海側の塚には榎、山側の塚にはせんだんの木を植えたそうだ。

化粧坂一里塚

東海道線で街道は遮られるが、地下道で反対側に抜けられる。

旧東海道

東海道線の海側に出ても松並木は続く。 このすぐ先に、大磯宿の入口である江戸見附跡の説明版が立つ。

大磯宿

大磯宿 虎御前と曽我兄弟

江戸から数えて8番目の宿場である大磯宿。 風光秀でて松林が連なる景勝地で、明治18年に大磯に開設された海水浴場は、日本初だそうだ。

延台寺の虎御石

曽我兄弟・兄十郎と恋仲になった虎御前。 仇討ちを遂げた兄弟亡き後、虎御前は19歳で出家。 延台寺のはじまりとなる庵を結び、兄弟の菩提を弔ったという。

同寺の法虎庵曽我堂には、身代わり石の「虎御石」が祀られ、境内には「虎御前供養塔」や「大磯宿遊女の墓」などもある。

虎御前供養塔
「虎御石」とは

舞の名手「虎御前」と「曽我兄弟」の伝説は、鎌倉時代の大磯を代表するものだそうで、「虎御石」は、曽我十郎の仇である工藤祐経が、曽我十郎を返り討ちにしようとした折りに、彼の身代わりとなって矢や刀を受けた石と伝えられている。

この「虎御石」を持ち上げると恋がかなうそうだが、重さは100Kg以上あるそうで、毎年5月末に御開帳されるという。

大磯宿本陣跡

大磯宿の小島本陣跡。 説明版にある間取りを見ると、最小でも6畳間で、4.5畳という小さな部屋は無かったようである。

大磯本陣跡

街道を右に入った地福寺にある島崎藤村のお墓を訪れ、その先には「新島襄終焉の地」碑が立つ。

同志社大学設立に向けて東奔西走するなか、病にかかりこの地で生涯を閉じたという。

新島襄終焉の地

湘南発祥の地碑と鴫立庵

「湘南」の地名発祥の碑が立つ。

湘南発祥の地碑

すぐ隣は日本三大俳諧道場のひとつである「鴫立庵」(しぎたつあん)。

西行がこの場所で「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と詠んだそうだ。

鴫立庵

島崎藤村 最後の言葉 「涼しい風だね・・・」

中山道の馬籠宿で生まれ、「木曽路はすべて山の中・・・」で始まる小説「夜明け前」を執筆した島崎藤村。

晩年は東海道の大磯に2年ほど暮らし、その旧宅が残されている。

島崎藤村旧宅

ボランティアガイドの女性からの親切な説明によると、藤村は激しい頭痛に襲われ、倒れながらも窓から入る風を受けて「涼しい風だね」と。 そしてもう一度「涼しい風だね・・・」を最後に昏睡状態に陥り、意識が戻ることなく亡くなったそうである。

政界の奥座敷 大磯に別荘を構えた要人たち

大磯宿の京見附跡を過ぎると立派な松並木となり、江戸時代の街道の雰囲気を残している。

大磯松並木

松並木の先には「明治記念大磯庭園」があり、伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、陸奥宗光といった、明治の政界の要人たちの邸宅が残り、この先には旧吉田茂邸もある。

陸奥宗光別邸

このような政界だけでなく、財界からは岩崎や三井、大倉喜八郎などの財閥総帥や、旧大名の土佐藩・山之内や佐賀の鍋島などの名が連なっていたという。

こじんまりとして静かな大磯の町であるが、明治に入ると凄い場所だったと改めて思い知らされた。

平塚駅から大磯宿までは、わずか4Kmほどであったが、次の小田原宿までは4里(17Km)と長い。 気を引き締めて次を目指そう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次