前日は箱根湯本から芦ノ湖の関所まで歩き、バスで小田原に戻って宿泊。 翌朝小田原から直通バスで芦ノ湖畔の箱根町まで戻り、この日は箱根から三島に向け箱根西坂を下るだけである。
昔の旅人は小田原宿を出発し、途中の関所で吟味を受け、さらに箱根峠から一気に三島宿まで、いわゆる箱根八里の約32Kmを1日で歩いた訳だから、相当たくましかったといえる。
早朝から歩き始め、急勾配の石畳を上り、日の暮れる前に三島宿に到着せねば・・・ と疲れた足に鞭打って急な坂道を駆け下る。 そして最大の難所を終え安堵する旅人の目に、三島宿はどのように映ったのだろうか? きっと三島女郎衆が盛大にお出迎えしたのだろう。
旅行日:2025年4月5日

- 日 付 : 2025年4月5日
- 宿間距離 : 箱根宿 ~ 三島宿 3里28町(14.8Km)
- 日本橋から: 累 計 28里27町(112.9Km)
- 万歩計 : 32,439歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
箱根宿は寂しい宿場
前日は関所見学後に蕎麦屋で食事をしている間に雨が降り出し、箱根宿は何も見ないで小田原に戻ってしまった。
今朝はその雨もすっかり上がり、やっと富士山の顔を拝むことができた。

江戸から10番目の宿場となる箱根宿には、本陣6軒、脇本陣1軒、旅篭は36軒あったといい、現在の箱根ホテル辺りが川田覚衛門本陣跡である。
本陣が6軒ということは、参勤交代の大名達も箱根越えの道の険しさに難儀した証なのだろう。
しかし江戸時代後期の文人・太田南畝は「宿場として鄙びた粗末な街並みで、その規模は間の宿である畑宿にも及ばない。 ただ夏でも蚊帳がいらないほど涼しかった」と語ったそうだ。
現在も本陣跡地は勿論、宿場を思い起こすような案内板や標識はなく、関所と芦ノ湖畔だけが賑わう宿場跡である。
正月恒例の箱根駅伝の往路ゴール地点であり、復路の出発点である。

国道1号から芹川の集落に入る交差点角に、山の神や関白道碑が立つ。 関白道碑は、豊臣秀吉が小田原攻めの際に開削した道で、一夜城の石垣山まで続いていたそうだ。

静かな芹川町のはずれにある駒形神社参道入口。 箱根宿の京方出入口はこの辺りだった。

箱根峠を目指して最後の上り
芹沢集落の先で旧道に入り、箱根峠に向かって「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」「挾石坂」と坂が続く。
旧道に入り、向坂の上り口に並ぶ芹川の石仏群。

赤石坂の途中で、国道1号の下を潜る。

最後の挟石坂を上り切ると国道1号に飛び出す。 しかし歩行者用の歩道はない。 僅かに緑に塗られた路肩が歩道の代わりのようだ。

箱根峠に到着。 かつては相模国と伊豆国の境で、現在は神奈川県と静岡県の県境である。 また関東から中部地方へ突入し、三島に向けた下りが始まる。

長引く茨ヶ平の旧街道通行止め
箱根峠から先の茨ヶ平から接待茶屋間の旧道は、令和元年の台風19号により被害を受け、災害復旧工事中で通行止めである。
今は令和7年。 予算がないのか工事が難航しているのか? とにかく長い時間が経過している。
通行止めと知りながらも、ちょっと様子を見にいこうと足を伸ばしてみる。
やはり閉鎖されていたが、旧道部分の雑草は刈られ、綺麗に整備されていた。 開通は近いのか?

峠の茶屋まで戻り、国道1号の迂回路を延々と歩く。

東海道に25里の一里塚は存在しない
国道1号の接待茶屋バス停の先で旧道に入る。 ここにあった接待茶屋は、途中何度か途切れたりしたようだが、昭和45年(1970)まで旅人に無料で湯茶の接待を行っていたそうだ。
国道1号から旧道に入る地点にある山中新田一里塚。 日本橋から26里である。
しかし一つ前の箱根一里塚は24里で、この一里塚は26里。 25里は何処へ行ったのか? Wikipediaを見ると”なし”となっていた。

施行平から石割坂、大枯木坂を下る
山中新田一里塚の先に、豊臣秀吉が小田原攻めの際、兜を老いて休息したと伝わる「かぶと石」がある。
元はどこにあったのか良くわからないが、GoogleMapには「移設兜石」とある。 国道1号の拡幅か何かで移設したのだろう。

施行平(せぎょうだいら)への、右に分岐する道に入ってみる。 緩い坂を上ると、寄道大正解の展望が待ち構えていた。
ふじさぁ~ん!! ちょっとピントがずれている。

う~み~ぃ! 三島から駿河湾の眺望。

石割坂を下る途中に、「念仏石」という巨岩が現れた。
巨岩の下に「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた碑が立ち、行き倒れの旅人を供養したようだ。

大枯木坂に入りスギ林の中を進む。 三島に下る西坂は、小田原からの上りに比べ道幅は広く、全体的に明るい感じがする。 下りで気分的に楽なせいだろうか?

先が少し開けてきた。

・・・と突然、民家の庭先に入ってしまったような旧街道。 本来は直進なのだが、民家前を左折して国道に出る。

山道は終わり、町へと入って行く
国道に出て少し進むと、函南町から三島市に入る。 しかしゴールはまだ遠い。

三島市に入った所で、国道から小枯木坂の旧道に入る。

石畳を進みむと、やがて「雲助徳利の墓」がある。
大酒のみの剣道指南役だった侍が雲助となり、雲助仲間に慕われたが酒の飲みすぎで早世。 雲助達が徳利と盃を浮き彫りにした墓を建てて供養したという。
墓前には「かみなり三代」という日本酒のパックが供えられていた。

この「雲助徳利の墓」で車道に合流。 箱根峠から続いた山道はここで終了し、町へと入って行く。 しかし三島宿に向けて、下りはまだまだ続く。
蟻地獄の山中城
雲助徳利の墓で合流した車道の反対側に、駒形諏訪神社がある。 この神社は、裏に広がる山中城本丸の守護神として祀られたという。
山中城は後で回るとして、街道を先に進むと宋閑寺がある。 境内には山中城の攻防で熾烈な戦いを繰り広げ、討ち死にしたという小田原北条家家臣と豊臣家家臣の墓が仲良く並んでいる。

山中城売店で百名城のスタンプを押し、小田原城の支城の一つである山中城へ寄道する。
山中城は「畝堀」や「障子堀」が特徴の城で、とくに障子掘はワッフルのような形にして、敵が一列にならないと歩けないように堀の土手幅を狭くしてある。
また現在は風化を避けるため芝が貼ってあるが、当時は関東ローム層の赤土がむき出しだったそうだ。 そこで敵が攻めてくると赤土に水をかけ、掘底に落ちた敵が滑って登れずにもがいている所を討たれるという、まさに蟻地獄のような防御施設であった。


これだけの防御施設を持ちながらも、豊臣方70,000人の大軍に僅か4,000人の北条方は抗しきれず、僅か半日で落城したという。
三島スカイウォークから笠原一里塚へ
山中城案内所の脇から旧道に入ると石畳が復活し、杉並木の中をハイキング気分で下る。
国道1号にぶつかるが、国道は勾配を緩やかにするため大きくカーブしているが、旧街道はその国道を串刺しするように直進する。
石畳が敷かれた新しい旧街道?が国道の上をいく。

旧国道1号を横断し旧街道に入る。 結構な階段を下り、上長坂の石畳へと続く。

上長坂を下り、再び国道1号に合流すると、巨大な吊り橋の三島スカイウォークが現れる。 富士山や駿河湾の絶景が望めるそうだが、土曜で混んでいるようなので寄らずに先に進む。

三島スカイウォークの向かいから旧街道に入り、笠原地区の石畳へと入る。 旧街道に入ってすぐの小屋に4基の石仏が祀られ、右の石仏には「牛馬頭観世音」と彫られている。

笠原の石畳を進むと、日本橋から27里の笠原一里塚が現れる。 南側の塚のみが残されている。

激坂「こわめし坂」
笠原一里塚の先で旧国道1号を横断し、箱根西坂でもっとも険しいという下長坂、通称「こわめし坂」の下りとなる。
この「こわめし坂」の名の由来は、いろいろ言い伝えがあるようだが、もっとも知られている話は「あまりの急勾配が長く続くので、旅人が背負っていた米が汗で蒸されて「こわ飯(強飯)」になってしまう」といったことから名が付いたという。
路面は舗装されているが、旧街道の雰囲気を残す笠原集落。 最初は勾配も緩やかに見える。

途中から急勾配となる。 確かに歩いて登りたくないし、自転車も電動チャリ以外は無理だ。

三島市街までまだまだ下るようである。 今いる所は、長い富士の裾野のどの辺りなのだろうか?

初音ヶ原松並木と錦田一里塚へ
こわめし坂を下り三ツ谷新田の集落を進み、坂公民館の所で右に分岐する旧街道に入る。
細い旧道から更に右の細い道に入ると、途中階段となる題目坂の下りである。

市山新田の集落の外れに、六地蔵が2組 つまり12体のお地蔵さまが並んでいる。

やがて右に分岐する旧街道に入る。 臼転坂(うすころざか)で、距離は短いが石畳である。 これが最後の山道で、これ以降街中の舗装路を歩くことになった。

塚原新田の旧東海道を振り返る。 勾配は緩くなったが、相変わらず下っている。

「箱根路の碑」を見て国道1号に合流すると、すぐ先で伊豆縦貫自動車道の上を越え、初音ヶ原の松並木へと入って行く。

松並木の途中にある錦田一里塚。 日本橋から28里で、北塚と南塚が残る見事な街道風景である。

松並木は約1Km続き、その松並木に沿って石畳風の歩道が続く。

「みしまコロッケ」で箱根越えの無事を祝う
初音ヶ原の松並木を抜け、五本松交差点で国道と別れ、いよいよ箱根越え最後の下り坂に向かう。
半分は石畳風、半分は普通の舗装路の愛宕坂を下る。 結構急勾配である。

愛宕坂を下ると、東海道線の旧東海道踏切が現れる。 新幹線はトンネルの中で、地図上では既に通り越している。

踏切を渡ると、本当に最後の下り坂となる「今井坂」である。
すぐ先の山田川に架かる「愛宕橋」が箱根越えの終着点。 この先は平地となる。
昔の旅人は三島女郎衆を目指し、疲れも吹っ飛び狂喜乱舞して三島宿に駆け込んでいったことだろう。 というか、こんなこと考えるのは自分だけか?

他の人の箱根越えの旅行記にも良く出ているが、これは読めない・・・

そして三島大社の鳥居の向かいに、「みしまコロッケ」の旗を発見。 ビールはないが、熱々なコロッケで箱根越えを祝う。

三島宿は次回歩くことにして、今回は三島大社前で終了。
桜の季節で、さらに土曜日。 三島大社をお詣りする気も失せるほどの人混みなので、さっさと通り過ぎて三島駅に向かう。

三島大社前でコロッケを2個食べ、さらに2個を新幹線に持ち込んでビールと共に食べたら、さすがに少々胸焼けがした。 この歳で食い過ぎはいかん・・・
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