和田峠を下り、長かった国道歩きも終えて、いよいよ下諏訪宿に入る。
下諏訪宿は前後に和田峠と塩尻峠といった難所が控え、甲州街道の終点で交通の要所でもあった。
また諏訪湖を目前とした風光明媚な地で、中山道唯一の温泉地でもあり、更に諏訪大社の門前町であることから大変賑わった。
旅行日:2017年6月10日
諏訪大社・御柱祭の「木落し坂」へ
和田峠を下り、4.5Kmほどの長かった国道歩きに別れを告げ、町屋敷バス停の先の分岐を左に入り下諏訪宿を目指す。

静かな住宅街を進むと、諏訪大社の御柱祭で有名な「木落し坂」の上となり御柱が飾ってある。
御柱祭は7年に1度行われ、御柱に氏子達が跨って坂の上から一気に引き落とす勇壮な祭りで知られている。

木落し坂の上から見るとかなりの急斜面だが、現在は木落し坂脇の落合発電所送水管横に付けられた階段を下る。

木落し坂を下り、国道との合流点に芭蕉の句碑といくつかの道祖神が祀られる。

国道に出てすぐに旧道に入るが、次に国道との合流点手前が「注連掛(しめかけ)」である。
木落しを終えた8本の御柱がここに並び、その後諏訪大社の下社春宮・秋宮に里引きされていくそうだ。
「山の神」と小さな御柱
国道の擁壁の上に石仏が並ぶ。 国道造成時の拡張工事で集め集められたものだろう。

さらに進むと、左の山際に「山之神」と書かれた扁額を持つ鳥居が立つ。
「頭の上がらない妻」を指して良く使われる言葉だが、無視すると後難がありそうなのでご挨拶しておく。

鳥居をくぐると「山の神」がひっそりと祀られ、すぐ横の沢沿いには妙見大菩薩など、多くの石仏が点在している。

イノシシの上に、やたらと武器を持った神?がいる。 狩猟の神だろうか?

山の神の先で国道から右の旧道に入ると、4本の御柱に囲まれた道祖神が立つ。
町屋敷の分岐から木落し坂へ向かう途中にも、御柱に囲まれた道祖神があり、また個人宅の庭にある祠にも柱を立てているのを見た。 さすがに諏訪大社のお膝元である。

諏訪大社 下社春宮から万治の石仏へ
前方左手に慈雲寺が見えるところで、国道から右に分岐して春宮方向へ進む。

杉並木の下は春宮である。 注連掛から里引きされてきた御柱は、この木立の間から急傾斜を木落しされ、春宮境内に運び込まれるという。

やっと下諏訪の街と諏訪湖が眼前に広がった。

諏訪大社
諏訪大社は信濃国一之宮で、諏訪湖の南側に上社(本宮、前宮)と、北側に下社(春宮、秋宮)の4宮があり、中山道は下社春宮の横を通っている。
せっかくなので春宮に和田峠の無事通過の御礼と、この先の中山道の旅の無事をお願いする。


万治の石仏 岡本太郎が絶賛した造形
春宮からさらに足を伸ばし、画家の岡本太郎が絶賛したというユニークな造形の「万治の石仏」を訪れる。
丸い巨石の上に大きな鼻を持つ首がちょこんと乗っているだけで、誰が考えたのか判らないが発想が素晴らしい。

「万治」は年号を表している。 しかし何時の頃からか、「万(よろず)のことを丸く治(おさ)める」という意味に変わってきたそうで、石仏近くの説明版には、お参りの作法が書かれていた。
- 正面で一礼し手を合わせ、「よろずおさまりますように」と心で念じる。
- 石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。
- 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。
私は一周しただけで終えたので、恐らく「よろずおさまらない」ことになるだろう。
慈雲寺 「龍の口」と「矢除石」
万治の石仏から街道に戻り、慈雲寺の表参道入口に「龍頭水口」と呼ばれる、迫力ある顔立ちの龍の彫刻から湧水が流れ落ちている。
慈雲寺への参拝客や中山道を往来する旅人ののどを潤していたのだろう。

「龍頭水口」横の階段を慈雲寺に向けて上ると、途中に武田信玄の「矢除石」がある。

武田信玄は慈雲寺の天桂和尚を師と仰ぎ、戦場に赴く時は戦勝の教えを請うたと云われる。
和尚が石の上に立ち、信玄に至近距離から「弓で射て見よ」と射かけさせると、矢は岩で跳ね返されたと伝わる。 この石には“矢除けの霊力がある”とされ、信玄は念力のこもった矢除札を受け、戦場に向かったと言い伝えられている。
湯田坂風景
慈雲寺の参道からさらに先に進むと、昔の温泉街を彷彿とさせる湯田坂である。 温泉街といっても、キラキラとネオン輝く歓楽街ではない。
下之原一里塚跡碑
慈雲寺参道入口を過ぎると街道風景は一変して土蔵造りの家などが増え、民家の軒下には日本橋から55里の「下之原一里塚跡碑」が立つ。

湯田坂と旦過の湯
御作田神社を左に見て進むと、昔からの温泉宿が残る湯田坂には静かな街道風情が漂う。

湯田坂の途中にある旦過の湯。
鎌倉時代に慈雲寺を訪れる修行僧のために建てられたそうで、湯口は52度という高温。 戦いで傷ついた武士も入浴したそうだ。

下諏訪宿中心部へ
日本橋から29宿目の下諏訪宿は、中山道と甲州街道との合流地である。
中山道唯一の温泉地で、街道前後にある和田峠や塩尻峠を越えた旅人が、温泉に浸かってホッと一息、疲れを癒したことだろう。
本陣 岩波家
下諏訪宿本陣は代々岩波家が務め、現在も子孫の方が住まわれているという。
皇女和宮や明治天皇も宿泊したそうで、一部公開されているが、列車の時間を考えパスした。

綿の湯跡碑 諏訪大社下社の七不思議
神聖な神の湯である「綿の湯」は、汚れたものが入ると湯口が濁るといわれ、諏訪大社下社の七不思議の一つに数えられているそうだ。
試しに丸いモニュメントから湧き出る湯に手を入れてみると、パッ!と茶色く!! ウソです・・・

甲州道中 中山道合流地碑
碑の横には、この地点からの距離を示すタイルが埋め込まれ、旧甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町とある。

「御宿まるや」と「桔梗屋」
中山道は甲州街道との合流点で、右に直角に曲がっている。 直進すれば諏訪大社の下社秋宮であるが、時間がないのでパス。
曲がり角には創業元禄3年(1690)の「桔梗屋」があり、皇女和宮降嫁の際には、母君観行院と付人達が宿泊したそうだ。

桔梗屋の向かいは元禄2年(1689)創業で、現在も宿として営業している「御宿まるや」である。

下諏訪駅に到着
街道を進み、国道142号との合流点に高札場が復元されている。 復元されたばかりのようである。

15時2分、下諏訪駅到着。 男女倉から6時間半ほどの和田峠越えであった。 各駅停車で上諏訪に移動し、上諏訪から「あずさ24号」で帰宅。

信州佐久側から、諏訪側へと中山道の舞台は移った。 今までは東京駅から新幹線が利用できたが、これからは新宿から中央線を利用することになる。
自宅から東京駅へのアクセスは良いが、新宿となると1時間かかる。 さらに「スーパーあずさ」といえども、諏訪や塩尻まで2時間以上かかってしまう。
日本橋を出発して日帰り旅を繰り返し、今回初めて1泊した。 しかしこれからは毎回宿泊を伴う中山道の旅となる。

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