喰違門のカーブを抜けると、ホテルニューオータニと紀尾井ホール間の交差点に出る。 ここから赤坂門に向け、急勾配の紀尾井坂を下り、弁慶橋を目指す。
この付近一帯には、紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の中屋敷があったことから「紀尾井町」と呼ばれるようになった。
紀尾井町の名の由来となった各藩屋敷跡
紀尾井町の名の由来となった、紀伊・尾張・井伊の各藩屋敷の中でも、紀伊徳川家の中屋敷は特に広かったようである。
現在の迎賓館の一部や、清水谷公園から紀尾井町通りの左手一帯がすべて紀伊徳川家の敷地で、紀尾井町交差点から赤坂プリンスの辺りまで含んでいたそうである。
切絵図でみる紀尾井町
切絵図を見ると、紀尾井坂を中心に紀伊、尾張、伊井家の3つの屋敷があることがわかる。 そして下の方に、クランク状の喰違門がある。

近江彦根藩 井伊家屋敷跡
ホテルニューオータニ駐車場沿いの遊歩道に少し入ると標柱が立つ。
井伊家といえば「桜田門外の変」で暗殺された井伊直弼が有名であるが、「桜田門外の変」当日の朝は、この中屋敷ではなく、外桜田にあった上屋敷から家を出た。

尾張名古屋藩 徳川家屋敷跡
四谷からの土塁沿いにある福田屋ビルの前に、尾張名古屋藩中屋敷跡の標柱が立つ。
尾張徳川家は、紀伊徳川家、水戸徳川家と共に徳川御三家の一員であり、尾張藩は御三家筆頭という、大名の最高位に位置していたという。

紀伊和歌山藩徳川家の屋敷跡標柱は弁慶橋手前に立つが、写真を撮り忘れてしまった。
清水谷公園 学生運動の集会の場
紀尾井坂を下り紀尾井町通りに曲がると、紀伊徳川家中屋敷の敷地を利用して作られたという清水谷公園がある。
学生時代に反戦集会が開かれ、ここから国会や日比谷公園に向けてデモが出発した懐かしい場所であるが、公園の様子は当時とすっかり様変わりしてしまい、今は集会など出来る公園ではなくなっていた。
大久保利通 哀悼碑
明治11年(1878) 5月14日朝、赤坂御所に出仕途中の参議兼内務卿・大久保利通は、紀尾井坂付近で征韓論を唱える6人に襲撃され、馬車から引きずり出されて斬殺された。
現在の内閣総理大臣に相当する要職にあり、これを「紀尾井坂の変」と呼ぶそうだ。

玉川上水の石枡
公園内には、麹町通り拡幅工事の際に出土した玉川上水幹線(本管)の石枡が置かれている。
玉川上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、四谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)に至る43kmに及ぶ水道である。 四谷大木戸で石樋や木樋を使って暗渠とし、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの地域に給水していた。

弁慶掘と弁慶橋
紀尾井町通りを赤坂見附に向けて進むと、喰違門手前から眺めた弁慶掘が現れる。 弁慶堀に架かる弁慶橋を渡り、更に青山通りを越えると、地下鉄の赤坂見附の駅である。
都心でバスフィッシング
弁慶堀ではルアーによるバス釣りが楽しめる。 イケスでは餌釣で鯉やフナなどを釣ることも出来るようだ。 釣りを楽しむ人を見かけるが、残念ながら釣り上げた所を見たことが無い。

弁慶橋
江戸時代に弁慶橋はなく、明治22年(1889)に神田松枝町と岩本町間にあった弁慶橋が不用となり、ここに移された。 その後昭和60年にコンクリート製に架けかえられたそうだ。

赤坂門
弁慶橋を渡り、青山通りを三宅坂方向への緩い坂を上ると、左手に赤坂門跡の石垣を見ることができる。
赤坂門
すっかり夏草に覆われているが、赤坂門の渡り櫓の石垣が残る。 また弁慶掘はこの赤坂門の下で途切れる。

赤坂門は現在の青山通りを跨ぐように渡り櫓があった。

この赤坂門の石垣は、首都高4号線を新宿方向から都心に向けて走った時、千代田トンネル入口の上に見ることができる。
青山通り
赤坂門の前から赤坂見附方向を見る。 青山通り(国道246号)は、江戸時代には大山道と呼ばれ、江戸から相模方面を結ぶ重要路であった。

江戸切絵図で見る
左の堀が弁慶掘で、右が虎の門方向から続く溜池である。 この2つの堀を分けるように赤坂門から続く陸地部分が現在の青山通りで、上の写真に相当する。
左上に「諏訪坂」とある。 これは現在のプリンス通りで、坂名も「諏訪坂」として残っている。

弁慶橋を渡った所が赤坂見附の交差点である。
この「赤坂見附」という名称は、地下鉄丸ノ内線や銀座線の駅名にあるので馴染深い。 また四ツ谷駅や市ヶ谷駅前の外堀通りには、「四谷見附」「市ヶ谷見附」といった名の交差点もある。
次は赤坂見附から虎ノ門に向けて歩くが、だいぶ都心部に入ってきた。

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