信越本線の横川駅から歩き始め、碓氷峠を越え軽井沢宿まで到着した。
軽井沢宿は宿場の面影はなく、観光地化して東京と変わりはない。 面白くもないのでさっさと通り過ぎ、次の沓掛宿を目指して歩き始める。
沓掛宿は明治43年(1910)に信越本線の沓掛駅が開設されたが、昭和26年(1951年)の大火で旧宿場は消失した。 更に昭和31年(1956)に駅名が中軽井沢に改められたことを機に、地名も中軽井沢に改称され、沓掛の地名は消えてしまった。
旅行日:2015年11月6日
- 日 付 : 2015年11月6日
- 街道地図 : 坂本宿 ~ 沓掛宿
- 宿間距離 : 坂本宿 ~ 軽井沢宿 2里半 (9.5Km)
: 軽井沢 ~ 沓掛宿 1里5町(4.5Km) - 日本橋から: 累 計 38里1町(149.3Km)
- 万歩計 : 30,370歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
離 山
観光客の多い旧軽井沢銀座を抜け、離山通りに入ると静かになる。 六本辻交差点を越え、中軽井沢を目指して歩く。
右手にお椀を伏せたような離山を眺めながら、まっすぐな道を進む。
皇女和宮降嫁時、その名を嫌って子持山とか兜山に変えたそうだが、定着はしなかったようだ。

直線の離山通り。 交通量は少なく、静かな道を進む。

沓掛宿への道
六辻の交差点を過ぎると、道は西に向かう。 やがて離山交差点で国道18号に合流し、旧街道は国道としなの鉄道に遮られる。
途中石仏が数体並んでた(写真右下)。 軽井沢宿の貴重な中山道の名残りである。

国道18号沿いに、立派な門を持つ屋敷があった。 調べると、軽井沢に落葉松を植林した、「雨宮」という明治の実業家の屋敷跡のようである。

軽井沢中学校前の交差点で左折し、信濃鉄道の踏切を渡って旧街道に戻る。
静かな旧街道を進むと、浅間山が悠然と煙を上げる、眺めの良い場所に出た。

宮之前一里塚跡碑
しなの鉄道に沿って左に少し入ると、日本橋から38里の宮之前一里塚跡の碑が立つ。 残念ながら、塚は残されていない。
現在の旧中山道のルートから少し外れているが、江戸時代初期にはこの辺りを通っていたのだろう。

沓掛宿
沓掛宿は現在の国道18号に沿って街並みが続き、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に、浅間三宿として栄えた。 しかし 現在”沓掛”という地名を聞いても、知らない人が多いだろう。
昭和26年(1951年)の大火で宿場の大半を焼失。 軽井沢と同様に宿場の面影は殆んどない。
更に昭和31年(1956)に信越本線の沓掛駅が中軽井沢駅に名称変更され、同時に地名も中軽井沢に改称され、沓掛の名を見出すことすら難しくなった
「沓掛時次郎」は架空の人物
国道18号の湯川沿いに、「沓掛宿碑」が立つ。 奥に長倉神社参道入口に立つ鳥居が見える。
横川の駅で「碓氷峠を一人で登るのは怖いので一緒に行ってくれ」と頼まれた女性は、この日の宿を探しに行くといってこの地でお別れした。

長倉神社へ少し寄道。 参道に架る橋から浅間山を眺める。

長倉神社には、”剣をとっては滅法強いが、義理と人情にはからきし弱い”といわれる「沓掛時次郎」の碑がある。 長谷川伸の小説の主人公である。

脇本陣跡 枡屋旅館
門柱に「旅館岳南荘 升屋本店」とあるが、前庭は荒れ放題であった。

鬼押出し
中軽井沢は、天明の浅間山噴火による溶岩流でできた「鬼押出し」の玄関口である。
中軽井沢の交差点には「鬼押出し」と書かれた青いアーチが立つ。 若い頃に車で遊びに来た時にもあったような気がする。

蕎麦を食べて帰る
沓掛宿はもう少し先まであるが、今回は中軽井沢の交差点で終了し、しなの鉄道の駅に向かう。
かぎもとや
電車の発車まで30分ほどあるので、「よし! 蕎麦を食べて帰ろう・・・」と、明治3年創業という「かぎもとや」に飛び込む。

16時過ぎだったが大盛りを注文。 もちろん美味しかった。

しなの鉄道 中軽井沢駅
蕎麦を堪能した後、あまりゆっくりできずに中軽井沢駅に向かう。

しなの鉄道の軽井沢駅に着くと、赤い車体に六文銭を描いた列車が止まっていた。 後で調べると、「ろくもん」という観光列車のようである。

軽井沢から新幹線で帰途につく。
これまで高崎から帰りの新幹線自由席に乗ると、座れない場合があった。 1日中歩いて足が棒になり、更に東京まで立ちっぱなしは辛かったが、軽井沢からだとまだ空席が多いので助かる。
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