前日夜のニュースで「草津で積雪」と聞き、浅間山も白くなったろうと思いながら早朝の新幹線で東京駅を出発。 そして軽井沢手前のトンネルを抜けてビックリである。
浅間山どころではなく、辺り一面銀世界 !!
「歩道に雪が残っているとまずいな!」と思ったが、中軽井沢まで来ると道路脇に少し雪が残る程度で問題なし。 抜けるような青空に、真っ白な浅間山・・・ しかしとてつもなく寒い・・・!
旅行日:2015年11月27日
- 日 付 : 2015年11月27日
- 街道地図 : 坂本宿 ~ 沓掛宿
- 宿間距離 : 沓掛宿 ~ 追分宿 1里3町 (4.3Km)
: 追分宿 ~ 小田井宿 1里10町(5.0Km)
: 小田井宿 ~ 岩村田宿 1里7町 (4.7Km) - 日本橋から: 累 計 41里21町(163.3Km)
- 万歩計 : 29,587歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
沓掛宿から出発
新幹線の軽井沢駅でしなの鉄道に乗り換え、中軽井沢で下車。 路面の雪は大半が消え、路肩に少し残る程度で、歩くには全く問題はなかった。
しかし寒さ厳しく、ピッキ~ンと張りつめたような寒さ。 東京の真冬と比べ、寒さの質が違う気がする。
持参したパーカーやスカーフ、手袋などを身にまとって出発する。
駅前から国道18号に出ると、「鬼押出し」の看板が歓迎してくれる。
直進すると「日本ロマンチック街道」と名の付く道に続くが、どこがロマンチックなのか良くわからない・・・

脇本陣蔦屋跡
八十二銀行駐車場奥に、脇本陣であった蔦屋跡の標柱が立つ。

国道18号を挟んだ反対側には、表札に「本陣 土屋」と掲げた家もある。
この本陣 土屋家の横を右に入ると、大きな欅の下に井戸が残されている。 「皇女和宮が休憩した井戸」と説明があったが、この沓掛宿で宿泊している。

古宿 物流の中継地だった
沓掛宿を抜け、国道18号から左に分岐する旧道に入り、古宿の集落に向かう。
古宿は牛や馬を使った物流の中継点で、そのためか旧道沿いには馬頭観音などの石仏が多い。


やがて18号に合流するが、軽井沢バイパスの下を抜けて再び旧道に入り、借宿の集落へと向かう。
借宿
借宿は中山道と脇街道である女街道との分岐点であり、佐久と上州の間の物流の中継地として人馬の往来も多く、間の宿として賑わったという。
女街道
街道から左へのT字路に「女街道入口」の説明版が立つ。
この左への道は「女街道」または「姫街道」と呼ばれ、上州の下仁田に通じている。
「入り鉄砲と出女」の取調べが厳しい碓氷の関所を避け、女人は上州下仁田からこのT字路まで続く裏街道を利用したという。

廃屋が旧街道の雰囲気を盛り上げてくれる。

雪の浅間山が少し見えた。

借宿の集落を進む。

遠近宮と書いて「おちこちのみや」と読む神社が現れる。
この地域一帯を「遠近(おちこち)の里」と呼び、浅間山を御神体とする浅間様が祀られていたという。

借宿集落の中心部。 立派な家が並ぶ。

建て替え前の鬼瓦だろう。 家の入口の戸の高さと比べても、その大きさに驚かされる。

軒先に杉玉をぶら下げる民家。 昔は造り酒屋だったのだろうか、杉玉の下のショーウィンドウ?の上には、御神酒を入れるような木桶が置いてある。

大きな馬頭観音の石碑と共に、小さな馬頭観音などの石仏が並ぶ。

追分一里塚
街道はやがて18号に合流。 交通量が多く騒音に包まれるが、追分宿はもう近い。
上州道道標
18号に合流してすぐ右に入る道の角に、草津方面に繋がる上州道道標が立つ。
「従是左上州」とあるが、下の方は達筆すぎて読めない。 自宅に戻って調べると、「従是左上州 草津 大笹 吾妻 道」らしい。

追分一里塚
日本橋から39里の追分一里塚が、国道を挟んで両側に残る。 もっとも昔はこんなに道は広くなかったので、たぶん移設か復元されたものだろう。


追分宿
追分一里塚の先で、旧道は国道から右斜めに離れて追分宿へ入って行く。
追分宿は江戸から20番目の宿場で、善光寺に通じる北国街道(北陸道)との分岐点でもあり、軽井沢・沓掛と共に浅間三宿として大いに賑わった。
なかでも追分宿の飯盛女は評判がよく、最盛期には200~270人もいたという。
そして「油家」と「大黒屋」は30人以上の飯盛女を抱え、旅籠というより娼妓館だったようだ。
追分資料館の前に立つ、高さ3mの馬頭観世音碑。

浅間神社参道口に立つ常夜灯。 裏を流れる御影用水は江戸時代に開削され、軽井沢の白糸の滝や千ヶ滝から水を引き、御代田や佐久などの農地を潤しているそうだ。


堀辰雄文学記念館
記念館入口にある門は、かつての追分宿本陣の裏門が移築されている。

追分宿の街道はきれいに整備され、出桁造りの雰囲気ある建物も残る。

御宿油屋
江戸時代には脇本陣を勤めていた油屋。 残念ながら昭和12年に建物は焼失し、再建はされたものの平成19年(2007)に旅館の営業は休止したそうだ。

本陣跡と高札場
追分宿の本陣は代々土屋家が務め、その跡地には「旧本陣」の表札が残り、門内には「明治天皇行在所跡」の碑が立つ。

本陣跡の先には、高札場が復元されている。

追分宿出口
街道は再び国道に合流し、ここが追分宿の京方出入口であった。
左に立つ櫓は単なるモニュメントのようである。

桝形の茶屋 つがるや
追分宿の京口には枡形があり、この枡形にあった茶屋の「つがるや」が残る。
枡形は残ってないが、茶屋の2階壁面に枡の形と「つがるや」の屋号を漆喰で浮き出させている。


いつもは歩いているうちに体は温まるのだが、この日の身を切るような寒さで温まることは無い。
いつも帰る頃には汗だくになるので、帰りの電車で臭わないよう着替え用シャツを持参するのだが、これを着込んで寒い。
追分を過ぎれば佐久に向かって標高は下がるので、多少は暖かくなることを期待して、次の小田井宿を目指す。
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