日本橋から25番目の宿場となる望月宿は、古くから馬の名産地として知られ、「朝廷の牧場(望月牧)」として保護されていた。 毎年旧暦8月15日の満月の日に朝廷に献上していたことから、「望月」の名が付いたと言われる。
望月宿への途中には難所と云われた瓜生坂があり、大正初期まで峠の茶屋があったという。
旅行日:2016年5月16日
- 日 付 : 2016年5月16日
- 街道地図 : 岩村田宿 ~ 芦田宿
- 宿間距離 : 岩村田宿 ~ 塩名田宿 1里 7町 (5.1Km)
: 塩名田宿 ~ 八幡宿 0里27町 (2.9Km)
: 八幡宿 ~ 望月宿 0里32町 (3.5Km)
: 望月宿 ~ 芦田宿 1里 8町 (4.8Km) - 日本橋から: 累 計 45里27町(179.6Km)
- 万歩計 : 29,515歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
百沢集落 古街道の雰囲気を残す
国道142号の百沢東交差点でガードレールの切れ目を抜け、静かで古街道の雰囲気を残す百沢集落に入る。
街道拡幅時に集落を避けて新道を造ったため、そのまま残されたのだろう。 新道はすぐ傍らを通るが、車で走ったらこの様な場所に気付くことはない。
百沢東交差点の旧道分岐に立つ標柱。 浅間山がきれいに見える。

国道から一歩旧道に入ると、昔の面影を残す静かな集落に踏み入れる。


緩やかに上る道から、百沢集落を振り返る。

集落の外れの草むらに、いくつかの双体道祖神が祀られている。

この中の一つに「祝言道祖神」があり、宮廷貴族の装いをして酒を酌み交わす姿は、安曇野地方でも例がないそうだ。

金山坂を上る
国道142号の「布施温泉入口」交差点に来ると、横の民家からお爺さんが出てきた。 そして「この新道を行ってはダメだ! 信号を渡ってしばらく進み、民家の所で右に入れ。 新道を進む人が多いが、あれは間違いだ・・」と親切に教えてくれた。
お爺さんの言う通り布施温泉入口交差点を渡りしばらく進む。 民家脇に道標が現れ、右の草道に入る。 「金山坂」の入口である。

民家の敷地を進むような感じで草道を上り、途中コンクリートの橋を渡る。

草むした旧道を上ると舗装路にぶつかる。 旧道はこの舗装路を突っ切って更に斜面を上がっていたようである。 しかし雑草や雑木に阻まれて進むことはできない。
舗装路を右に曲がり、信号のない国道を注意して横断する。 横断した所に望月宿と書かれた石灯籠が立ち、細い道の迂回路に入る。

国道から迂回路に入り、金山坂を上り続ける。 どこかで旧道が合流してくるかと思ったが、それらしきものは判らなかった。

一里塚と瓜生坂
古くは瓜生峠とも呼ばれた峠にむけて金山坂を上っていくと、頂上手前に瓜生坂一里塚がある。
形が崩れているが南塚はほぼ形をとどめ、北塚は道路で半分削られてしまった。

一里塚の先が瓜生峠の頂上らしいが、開削された切通しとなっている。 平坦となった道を進むと、瓜生坂碑や百万遍念仏塔などが並ぶ瓜生坂への下り口である。

瓜生坂 草付きの急勾配を下る
瓜生坂碑のすぐ先で舗装路を離れ、山の斜面を下る瓜生坂に入る。 坂道は瓜生坂碑の裏側に回るように、雑草に覆われた急勾配の野道を下る。

下の舗装路との合流点から瓜生坂を振り返る。

長坂を更に下る
瓜生坂を下ると舗装道路に出るが、少し進むと右に分岐する細い道が現れる。 「長坂」と呼ばれる旧道で、瓜生坂に負けないぐらいの急坂であった。
右に分岐する細い道に入る。 「長坂」という名で、結構な急坂である。

狭く曲がりくねった坂道を下る途中には、馬頭観音や道祖神、百万遍供養塔など多くの石仏・石塔が並ぶ。 大応院という寺が昔あったが、明治5年に廃寺となった名残だそうだ。


「瓜生地区急傾斜地崩壊危険区域」の看板が立つ長坂を振り返る。

絶壁の弁才天
長坂を下り切ると、鹿曲川(かくまがわ)に突き当たる。 川を渡ると望月宿だが、少し寄り道して絶壁を穿って造られた弁才天を見に行く。
鹿曲川に架かる長坂橋を渡ると、出梁造りの立派な家が建つ。 出梁りの下に、丸にカタカナの”モ”の字が彫られた飾りが付いている。 望月宿なので”モ”なのだろうか?

鹿曲川から坂を上り、望月宿枡形跡を越えて望月宿のバス通りに出る。 宿場は右折してバス通りを進むが、反対方向に曲がって岩壁を穿って建てられた弁才天を見にいく。
鹿曲川の大きな岩壁にしがみつくように建てられた弁才天。 残念ながら老朽化で遊歩道は通行不可であった。
なお 一般的には「弁財天」と書くことが多いと思うが、現地の案内板の表記は「弁才天」となっていた。

望月宿中心部へ
弁才天から戻り、望月宿中心部へと入って行く。
元々は鹿曲川の反対側に望月宿はあったが、1742年の大洪水で流されたため対岸に移転して現在の望月宿になったという。
木組みの白壁と、格子が立派な大きな民家が現れる。

旅籠だった「山しろや」。 現在も「御宿 山城屋」として営業し、2階の軒下には「山しろや」の行灯が下がる。 夜には明かりが灯るのか?

鹿曲川を渡った所には、丸に”モ”の字が彫られた出梁造りの家があったが、「ささや」の看板がある家は扇の形で飾られ、なかなかお洒落で凝っている。

昔は下駄屋さん? 軒下に大きな下駄がぶら下がるが、ここにも丸に”モ”の焼き印がある。

本陣と脇本陣
往時の本陣であった大森家は、現在は大森小児科医院となっている。 斜め向かいの藤棚を持つ家は、「鷹野脇本陣跡」である。

重要文化財の真山家
望月宿では最も古い、明和35年(1766)の建造物である。 往時は「大和屋」という屋号の旅籠で、国の重要文化財に指定されている。

大伴神社
宿場のはずれに大伴神社があり、毎年8月15日に多くの住民たちが松明を持ち、山を駆け下りて望月橋から鹿曲川に松明を投げ込む神事があるそうだ。
今でも行われているのかは不明であるが、階段を見て上る気が失せてしまった。

望月宿は思っていた以上に、昔の面影を持つ家などが残っていた。 そして望月宿手前にある百沢集落は、時が止まったような静かな集落で、非常に印象深い地域であった。 いつまでもこの風景を残してもらいたいものである。
望月宿の先には、間の宿として茂田井という集落がある。 この茂田井も百沢集落と同じように、街道の面影を色濃く残すようなので楽しみである。
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