昔の旅人は、順調であれば江戸を旅立って3日で三島宿だったそうだ。 いくら健脚とはいえ、最初の難関”箱根峠”を越えた旅人には、三島宿の留女の声も心地よく響いたことだろう。
小田原宿と同様に、箱根越えを控えた旅人を目当てに、飯盛女の人数は多かったという。
「富士の白雪ゃノーエ」で始まり、「三島女郎衆はノーエ」、「三島さいさい」などの歌詞を持つ「ノーエ節」にある三島女郎衆とは、三島宿の飯盛女のことだろうか?
今回三島宿を歩くにあたり、この三島女郎衆の名残りを探ろうと目論んだが・・・
旅行日:2025年4月24日

三島 朝 霧
【 コースデータ 】
| 日付 | 区 間 | 宿間距離 | 日本橋から | |
| 4月25日 | 三島 | 沼津 | 1里半(5.9Km) | 30里9町(118.8Km) |
| 沼津 | 原 | 1里半(5.9Km) | 31里27町(124.7Km) | |
| 4月26日 | 原 | 吉原 | 3里22間(11.8Km) | 34里27町22間(136.5Km) |
| 4月27日 | 吉原 | 蒲原 | 2里半12町23間(11.2Km) | 37里21町45間(147.7Km) |
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
爆速新幹線を実感する
新幹線を利用して三島駅で下車。 自宅最寄駅から1時間50分で三島到着である。
日本橋を出発し、三島まで歩いて7日を要したが、電車では僅か2時間である!

三嶋大社
2025年4月5日に箱根を越えて三嶋大社前まで来たが、この時は桜が咲いていて混雑していた。 今回は朝の静かな境内を散策しながら、三嶋大社前から西に向かって歩を進める。
三島駅から三嶋大社に向かう途中にある、富士山の湧水が湧く白滝公園。

三嶋大社の裏口から入り、静かな林を抜けて本殿に向かう。

三嶋大社本殿。 今回の旅の無事を祈って出発である。

源頼朝と北条政子が平家追討を祈願に訪れた時、一休みしたと伝わる腰掛石。 石の形からして、出来すぎた話である。

今まで「三島大社」だと思っていたが、正式には「三嶋大社」と書くそうだ。

三島宿本陣跡 宿場の面影は何もない・・・
三嶋大社の鳥居前を行く旧東海道を、西に向かって街道歩きを再開する。 街道沿いには古い建物も多少は点在するが、大半は新しい家並みとなり、宿場の面影は失われている。
三島中央郵便局の横に、小さく問屋場跡の説明版が立つ。

町中を水量豊かに御殿川が流れる。 江戸初期に徳川家光が休泊用に御殿を建て、その横を流れていたので「御殿川」の名が付いた。

瀬古本陣跡。 残念ながら遺構はまったく残っていない。 道路の反対側は樋口本陣跡だが、これも標柱が立つのみである。

三島で人気の「うなぎ桜屋」 富士山の伏流水に数日さらしたうなぎだそうで、食べたかったが開店前。 残念!

伊豆国分寺へ
伊豆箱根鉄道の踏切を超え、伊豆国分寺に寄り道する。 国分寺は聖武天皇が疫病や飢饉、政治の混乱などから国を守るため、全国各地に建立した。
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅。

三島広小路駅の裏手路地から伊豆国分寺に向かう。 往時は境内に七重の塔があったそうだ。

街道に戻ると、面白い看板を見つけた。 「ノーエ節」の歌詞とは違うようだが、”いいね”ボタンがあれば押してあげたい。

くず湯が有名だという和泉屋。 お土産にと思ったが、初日から荷物を増やしたくないのでパスした。

伊豆国から駿河の国へ
三島宿の京方出入口近くを流れる境川が、現在の三島市と清水市の境であり、古くは伊豆国と駿河の国の境であった。
三島宿京方出入口であった西見附跡に鎮座する秋葉神社。 神社の土台の石垣は見附の遺構だそうである。

秋葉神社のすぐ先を流れる境川。 この境川の上を千貫樋が流れる。
千貫樋は北条氏康の娘”早川殿”が今川氏真に嫁いだ時、氏康が引出物として小浜池から駿河に水を通したことが起源だそうである。 写真は判りづらいが、上の木の中から横に伸びている長方形の黒い樋部分が千貫樋である。

横に回って千貫樋の流れを見る。

三島女郎衆の名残りは?
結局三島宿は宿場の面影も薄く、三島女郎衆の名残りは全く見ることはなかった。
自宅に戻り調べると、女郎衆のいた旅籠は明治期に10軒ほどに減り、さらに大正期に風紀上の問題から茅町(現清住町)移転時に5軒で遊郭となり、昭和31年まで三島遊郭として残っていたそうだ。
この清住町の遊郭建物は老朽化のため、残念ながらすべて取り壊されてしまったという。
千貫樋の下を流れる境川を超え、伊豆の国に別れを告げて駿河の国に入る。 駿河の国の西は大井川であるが、富士山を眺めながらの街道旅となる。 天気が良ければ良いのだが・・・

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