狩野川の河口に位置する沼津。 戦国時代に甲斐の武田勝頼が三枚橋城を築き、小田原の北条氏との小競り合いが繰り広げられたという。
徳川の時代に入り三枚橋城は廃城となり、以後160余年の間沼津に城は置かれず、東海道の宿場として機能していた。 しかし安永6年(1777)に老中水野忠友が三枚橋城跡地に沼津城を築き、城下町として発展したが、明治期に競売に付されて解体。 堀も埋め立てられた。
東海道はかつての三枚橋城の城内を通っているそうだが、残念ながら面影は失われている。
旅行日:2024年4月25日

沼津 黄昏図
【コースデータ】
| 日付 | 区 間 | 宿間距離 | 日本橋から | |
| 4月25日 | 三島 | 沼津 | 1里半(5.9Km) | 30里9町(118.8Km) |
| 沼津 | 原 | 1里半(5.9Km) | 31里27町(124.7Km) | |
| 4月26日 | 原 | 吉原 | 3里22間(11.8Km) | 34里27町22間(136.5Km) |
| 4月27日 | 吉原 | 蒲原 | 2里半12町23間(11.2Km) | 37里21町45間(147.7Km) |
伊豆の国から駿河の国へ
千貫樋の架かる境川を越え、伊豆の国から駿河の国へ、また現代の三島市から清水町に入る。 清水市はだいぶ以前に静岡市と合併したと思っていたが、どうも清水市とは別に清水町があるようだ。
駿河の国に入ると、秋葉大権現と富士浅間宮を刻む常夜灯が出迎えてくれた。

伏見一里塚
江戸から29里目の伏見一里塚。 街道を挟んだ2つの寺の境内に塚が残り、それぞれ寺の名を付けて呼ばれている。
宝池寺一里塚と玉井寺一里塚
宝池寺門前にある伏見一里塚。 宝池寺一里塚と呼ばれ、昭和60年に復元された。

宝池寺の向かいにある玉井寺。 この玉井寺にある一里塚は往時のままで、玉井寺一里塚と呼ばれる。

白隠の遺墨
玉井寺一里塚の横には、”白隠の遺墨”といわれる石碑が立つ。 ”三界萬霊等”と彫られているらしい。

源頼朝と義経の「対面石」
街道から右に少し入ると八幡神社がある。 治承4年(1180)、源頼朝が西に軍勢を進めるのを知った義経は、奥州からここに駆けつけ、源頼朝と初対面時に座った石が残されている。

頼朝と義経が涙ながらに対面し、この石に腰掛けて平家打倒を誓い合ったと伝わる。 頼朝は三嶋大社で北条政子と石に腰掛け、この地では義経と・・・ 石が好きなようである。

八幡神社から先に進み進むと、左に長沢松並木が残る。

智方神社境内の石仏群
鎌倉幕府打倒の立役者で、後醍醐天皇の皇子ある護良親王の御首を葬ったといわれる智方神社。 その境内には馬頭観音や庚申塔、観音像などが祀られ、説明版には「川施餓鬼地蔵尊像」と書かれている。

黄瀬川を渡り、清水町から沼津市へ入る。 天気が良ければ富士山が見えるのだが・・・

沼津市に入る
黄瀬川はすぐ下流で狩野川に合流し、街道は狩野川沿いに進んで沼津市市街へと進んでいく。
潮音寺の「亀鶴姫の碑」
平安時代末期、木瀬川村の長者小野氏に亀鶴姫という一人娘がおり、駿河の三美人といわれる程に才色兼備の女性だった。 しかし 18歳のときに源頼朝が”富士の牧狩”の宴に再三召すが応ぜず、黄瀬川上流の百沢の滝に身を投げたという。

沼津領傍示石
「従是西 沼津領」と刻み、安永7年(1778)に建てられた。 ここから西が水野家5万石の沼津藩領である。

狩野川沿いの街道
街道は大岡二ッ谷信号で左に分岐して狩野川沿いとなり、堤防に上がって狩野川を眺める。
狩野川は伊豆の天城山系を水源とし、太平洋側では珍しい南から北に流れる川であるが、この辺りからUターンするように北から南に向きを変えて駿河湾にそそぐ。

平作地蔵
日本三大仇討の一つ、鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)ゆかりの地で、仇討ちを果たす渡辺数馬の妻”お米”の実家の茶屋跡に立つ平作地蔵。
”お米”の父平作は、命を懸けて娘婿の仇である河合又五郎の行方を聞き出し、その心に打たれた人々が平作地蔵尊を建立したという。

沼津一里塚と玉砥石
小さな公園に、日本橋から30里の沼津一里塚が可愛く復元されている。

同じ公園には、奈良・平安時代に玉類を磨いたとされる二つの「玉砥石」も残る。

川廓通りから沼津城(三枚橋城)本丸跡へ
県道380号から川廓通りに入る。 石畳の落ち着いた雰囲気の通りで、往時は遊郭があったのかと思って調べたが関係はないようだ。

県道159号の広い通りにぶつかり、沼津城本丸跡に行くため右折する。 途中 三枚橋城の石垣が、少しだけ復元されている。

沼津城本丸跡に作られた中央公園に立つ「沼津城本丸址」碑。 石碑の周りには、発掘された三枚橋城の石垣の石が並ぶ。

大きな新しいビルが立ち並ぶ上土町。 三枚橋城の堀を掘った際に出た土を、この地に積み上げたことが地名の由来とされる。

沼津宿中心部 宿場の面影は皆無だった
通横町を右折し、すぐに本町交差点を左折。 沼津宿の中心部であった本町通りへと入っていくが、現在の沼津の中心街からは外れている。
標石が示す本陣跡
本町通りには3軒の本陣と脇本陣が並んでいたが、明治時代に2度の大火と戦争中の空襲により、古い家屋や本陣跡は灰燼に帰した。 現在はそれぞれの跡地を示す標石が置かれている。


浅間神社 2つの神社が同居する
清水本陣の先を右折し、浅間町交差点角に浅間神社が鎮座する。 明治期に丸子神社が同地に鎮座してきたので、一扉二社という珍しい形式だそうだ。
鳥居の扁額には2つの名が書かれている。

本殿前に下がる提灯も、左右で名が異なる。 賽銭箱はどうなっているのか? 見なかった!

浅間神社のある浅間町交差点角には「千本浜海水浴場道」の道標が立つ。
街道は浅間神社前から交差点を直進し、幸町バス停付近には沼津宿西見附があったようだ。
浅間町交差点を左折し、700mほど南に進むと千本浜である。 せっかくなので 千本浜を眺めて、次の原宿に向かおう。

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