東海道 第14宿 吉原宿(1) 吉原宿の前身である田子の浦の「見付宿」へ

吉原宿に向かう途中には、万葉集に収められた山部赤人の歌で有名な”田子の浦”がある。 東海道制定以前の鎌倉初期に、現在の田子の浦付近には旅人を改める見付が置かれ、やがて港町・商業地として発展し、見付宿と呼ばれるようになったという。

しかし高潮などの被害により移転し、その移転先で”吉原”と名を改めたという。

せっかくなので 万葉の歌に謡われた田子の浦と、見付宿跡を見に寄り道することにした。

旅行日:2025年4月26日

左富士

吉原 左富士

【コースデータ】

日付区 間宿間距離日本橋から
4月25日三島沼津1里半(5.9Km)30里9町(118.8Km)
沼津1里半(5.9Km)31里27町(124.7Km)
4月26日吉原3里22間(11.8Km)34里27町22間(136.5Km)
4月27日吉原蒲原2里半12町23間(11.2Km)37里21町45間(147.7Km)

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

原宿を出発

沼津のホテルに宿泊し、翌朝 JR原駅に戻る。 前日は途中から雨に降られたが、この日もどんよりと雲に覆われ、富士山の顔を拝むことができない。

「雨よりいいか・・・」と自分に言い聞かせ、歩き旅を再開する。

JR原駅

前日訪れた原宿西木戸跡から先に進むと、民家の玄関先に原・一本松一里塚跡の標柱が立つ。 日本橋から32里。

一本松一里塚跡

相変わらず街道は一直線に続く。

旧東海道

村社 三社宮。 このあたりの神社には、入口に石積みの土塁のようなものが置かれていることが多い。 何か意味があるのだろうか??

村社三社宮

海岸山大通寺。 幕末には寺子屋が開かれていたそうだ。

海岸山大通寺

桜地蔵尊へ 

街道は沼津市桃里に入る。 この地は鈴木助兵衛により開拓され、助兵衛新田という地名だったが、「すけべえ」の名は問題があると、明治に入って桃里と地名が改められた。

 どちらにお住まいですか?

  「すけべい」です。

確かにこれはまずい・・・

桃郷東バス停

街道沿いに「桜地蔵尊」の案内板があり、その名に惹かれて寄ってみることにした。

桜地蔵尊入口

細い路地に入り、東海道線の桃里西踏切を越えて桜地蔵尊へ。 戸が閉まっていてお地蔵様は拝めなかったが、桜の満開の季節は綺麗そうだ。

桜地蔵尊

浮島ヶ原自然公園と王子神社

東海道線の踏切を越え、沼津市から富士市へ入る。 そしてJR東田子の浦駅の北側には、浮島ヶ原自然公園という大きな湿地帯が残る。

東海道線の植田踏切を渡る。

植田踏切

街道は踏切を渡って右に進むが、左に曲がると植田という地名の由来になった”植田三十郎墓所”がある。 新田開発で干拓を行ったが、道半ばで断念。 しかし干拓の苦労に感謝した地元の人々により、植田新田と名付けられたという。

植田三十郎墓所

街道に戻ると、すぐに富士市に入る。

富士市

浮島ヶ原自然公園

東田子の浦駅の手前を右に折れ、国道1号を超えた先にある浮島ヶ原自然公園を訪れる。 かつては浮島沼と呼ばれた湿原で、湿原の中を遊歩道が整備されている。

天気が良ければ、富士山まで遮るものがない広大な景色を楽しめたことだろう。

浮島ヶ原

六王子神社 三股淵の生贄伝説が残る

東田子の浦の駅前に、「三股淵の生贄伝説」が残る六王子神社がある。

三股淵と呼ばれる深い淵に住む大蛇(おろち)の怒りを鎮めるため、12年に1度生贄を捧げる風習があった。 たまたま通りかかった7人連れの巫女の一人が生贄とされ、残った6人は1人を犠牲にして帰れないと柏原沼に身を投げたという。

この6人の巫女を祀ったのが六王子神社だそうだ。

六王子神社

難破船の錨がある立圓寺

間の宿柏原の本陣跡の標柱が立つ。 9軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎの蒲焼を名物に繁盛したという。

間宿柏原本陣跡碑

立圓寺

昭和54年(1979)に台風20号で難破し、柏原海岸に打ち上げられたジャカルタの貨物船「ゲラティック号」の錨が境内に置かれている。

立圓寺

昭和放水路。 水門の向こうは駿河湾で、この放水路の完成により浮島沼は消滅した。

昭和放水路

沼田新田一里塚跡

昭和放水路に架かる広沼橋の先の路傍に、ひっそりと沼田新田一里塚跡の碑が立つ。 日本橋から33里で、左右両塚とも消滅している。

沼田新田一里塚跡

富士山が顔を出す!

沼田新田一里塚跡から先に進み、何気なく右手を見ると、なんと雲間から富士山が顔を出していた。 その第一印象は「高い!」であった。 新幹線から見る富士山より離れているはずだが、なぜか迫力というか、崇高さを感じた。

津波避難タワー

街道が駿河湾に接近したので、海を見に海岸線に出てみる。 海岸沿いの防風林の内側には津波避難タワーが立っていた。

東海道を歩いている最中に南海トラフ地震が発生したら、恐らく津波からは逃げられないだろう。 地震が起きないことを祈るばかりである。

津波避難タワー

春耕道しるべ第1号

仁藤春耕という人が、明治39年から4年の歳月をかけ、十里木街道を須走口まで128基の石塔を建てたという。 これはその第一歩の石塔で、現存54基とか・・・

春耕道しるべ第1号

雲間から!

オッ! オオ~! これは・・・

富士山

元吉原へ

当初の吉原宿はこの付近にあったが、寛永16年(1639)の高潮で壊滅的な被害を受け、宿場を中吉原に移転した。 しかし延宝8年(1680)にも高潮で壊滅し、現在の吉原本町に新吉原宿として再度移転した。

Wikipediaには高潮と書かれているが、たぶん津波だろう。 自然の力には勝てない・・・

元吉原は街道の雰囲気を少し残すが、派手な煙突が目の前にそびえる。

元吉原

元吉原の妙法寺。 旧暦正月の「毘沙門天大祭」で開催される”だるま市”は、日本三大だるま市に数えられている。

妙法寺

万葉の景勝地 田子の浦と見付宿跡

鎌倉時代初期の吉原宿もなかったころ、この付近の東西往還は駿河湾沿いにあり、田子の浦港を船で渡ったそうだ。 そして東岸には旅人を改める見付が置かれ、南北朝から戦国時代になると宿場・港町としての機能を持つようになり、「見付宿」と呼ばれて吉原宿の前身を形作ったという。

右に曲がると東海道線の踏切を越えるが、街道は直進である。

旧東海道

しかし 前方をJRの線路が行く手を阻む。 現在の街道ルートは、上の写真の角を右折して線路反対側に伸びる旧街道に迂回する。

東海道消失地点

しかし 昔の見付宿跡を見に行くため、そのまま直進して田子の浦方向に足を延ばす。

緩やかな坂を上っていくと、えんま堂と六地蔵が並ぶ富士山絶景ポイントが現れた。 それにしても天気の回復が早く、青空が広がっていた。

六地蔵

鈴川港公園にも津波ひなんタワーが立っていた。

鈴川港公園

見付宿跡に向かう古道。 右は明光院。

妙法寺

”富士と港の見える公園”内に立つ「見付宿跡」碑。 高波や砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間に現在の鈴川・今江地区 つまり”元吉原”地区に移転して”吉原”と改名したそうだ。

見附宿碑

公園内の展望台から富士山を望む。

田子の浦

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける 

山部赤人が詠み、万葉集に収められたこの歌はあまりに有名。 山部赤人が現在のこの景色を眺めたら、何を思うだろうか?

万葉の時代に少し思いを馳せた後、来た道を引き返し吉原宿を目指す。 次の見どころは左富士だ。

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