吉原宿に向かう途中には、万葉集に収められた山部赤人の歌で有名な”田子の浦”がある。 東海道制定以前の鎌倉初期に、現在の田子の浦付近には旅人を改める見付が置かれ、やがて港町・商業地として発展し、見付宿と呼ばれるようになったという。
しかし高潮などの被害により移転し、その移転先で”吉原”と名を改めたという。
せっかくなので 万葉の歌に謡われた田子の浦と、見付宿跡を見に寄り道することにした。
旅行日:2025年4月26日

吉原 左富士
【コースデータ】
| 日付 | 区 間 | 宿間距離 | 日本橋から | |
| 4月25日 | 三島 | 沼津 | 1里半(5.9Km) | 30里9町(118.8Km) |
| 沼津 | 原 | 1里半(5.9Km) | 31里27町(124.7Km) | |
| 4月26日 | 原 | 吉原 | 3里22間(11.8Km) | 34里27町22間(136.5Km) |
| 4月27日 | 吉原 | 蒲原 | 2里半12町23間(11.2Km) | 37里21町45間(147.7Km) |
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
原宿を出発
沼津のホテルに宿泊し、翌朝 JR原駅に戻る。 前日は途中から雨に降られたが、この日もどんよりと雲に覆われ、富士山の顔を拝むことができない。
「雨よりいいか・・・」と自分に言い聞かせ、歩き旅を再開する。

前日訪れた原宿西木戸跡から先に進むと、民家の玄関先に原・一本松一里塚跡の標柱が立つ。 日本橋から32里。

相変わらず街道は一直線に続く。

村社 三社宮。 このあたりの神社には、入口に石積みの土塁のようなものが置かれていることが多い。 何か意味があるのだろうか??

海岸山大通寺。 幕末には寺子屋が開かれていたそうだ。

桜地蔵尊へ
街道は沼津市桃里に入る。 この地は鈴木助兵衛により開拓され、助兵衛新田という地名だったが、「すけべえ」の名は問題があると、明治に入って桃里と地名が改められた。
どちらにお住まいですか?
「すけべい」です。
確かにこれはまずい・・・

街道沿いに「桜地蔵尊」の案内板があり、その名に惹かれて寄ってみることにした。

細い路地に入り、東海道線の桃里西踏切を越えて桜地蔵尊へ。 戸が閉まっていてお地蔵様は拝めなかったが、桜の満開の季節は綺麗そうだ。

浮島ヶ原自然公園と王子神社
東海道線の踏切を越え、沼津市から富士市へ入る。 そしてJR東田子の浦駅の北側には、浮島ヶ原自然公園という大きな湿地帯が残る。
東海道線の植田踏切を渡る。

街道は踏切を渡って右に進むが、左に曲がると植田という地名の由来になった”植田三十郎墓所”がある。 新田開発で干拓を行ったが、道半ばで断念。 しかし干拓の苦労に感謝した地元の人々により、植田新田と名付けられたという。

街道に戻ると、すぐに富士市に入る。

浮島ヶ原自然公園
東田子の浦駅の手前を右に折れ、国道1号を超えた先にある浮島ヶ原自然公園を訪れる。 かつては浮島沼と呼ばれた湿原で、湿原の中を遊歩道が整備されている。
天気が良ければ、富士山まで遮るものがない広大な景色を楽しめたことだろう。

六王子神社 三股淵の生贄伝説が残る
東田子の浦の駅前に、「三股淵の生贄伝説」が残る六王子神社がある。
三股淵と呼ばれる深い淵に住む大蛇(おろち)の怒りを鎮めるため、12年に1度生贄を捧げる風習があった。 たまたま通りかかった7人連れの巫女の一人が生贄とされ、残った6人は1人を犠牲にして帰れないと柏原沼に身を投げたという。
この6人の巫女を祀ったのが六王子神社だそうだ。

難破船の錨がある立圓寺
間の宿柏原の本陣跡の標柱が立つ。 9軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎの蒲焼を名物に繁盛したという。

立圓寺
昭和54年(1979)に台風20号で難破し、柏原海岸に打ち上げられたジャカルタの貨物船「ゲラティック号」の錨が境内に置かれている。

昭和放水路。 水門の向こうは駿河湾で、この放水路の完成により浮島沼は消滅した。

沼田新田一里塚跡
昭和放水路に架かる広沼橋の先の路傍に、ひっそりと沼田新田一里塚跡の碑が立つ。 日本橋から33里で、左右両塚とも消滅している。

富士山が顔を出す!
沼田新田一里塚跡から先に進み、何気なく右手を見ると、なんと雲間から富士山が顔を出していた。 その第一印象は「高い!」であった。 新幹線から見る富士山より離れているはずだが、なぜか迫力というか、崇高さを感じた。
津波避難タワー
街道が駿河湾に接近したので、海を見に海岸線に出てみる。 海岸沿いの防風林の内側には津波避難タワーが立っていた。
東海道を歩いている最中に南海トラフ地震が発生したら、恐らく津波からは逃げられないだろう。 地震が起きないことを祈るばかりである。

春耕道しるべ第1号
仁藤春耕という人が、明治39年から4年の歳月をかけ、十里木街道を須走口まで128基の石塔を建てたという。 これはその第一歩の石塔で、現存54基とか・・・

雲間から!
オッ! オオ~! これは・・・

元吉原へ
当初の吉原宿はこの付近にあったが、寛永16年(1639)の高潮で壊滅的な被害を受け、宿場を中吉原に移転した。 しかし延宝8年(1680)にも高潮で壊滅し、現在の吉原本町に新吉原宿として再度移転した。
Wikipediaには高潮と書かれているが、たぶん津波だろう。 自然の力には勝てない・・・
元吉原は街道の雰囲気を少し残すが、派手な煙突が目の前にそびえる。

元吉原の妙法寺。 旧暦正月の「毘沙門天大祭」で開催される”だるま市”は、日本三大だるま市に数えられている。

万葉の景勝地 田子の浦と見付宿跡
鎌倉時代初期の吉原宿もなかったころ、この付近の東西往還は駿河湾沿いにあり、田子の浦港を船で渡ったそうだ。 そして東岸には旅人を改める見付が置かれ、南北朝から戦国時代になると宿場・港町としての機能を持つようになり、「見付宿」と呼ばれて吉原宿の前身を形作ったという。
右に曲がると東海道線の踏切を越えるが、街道は直進である。

しかし 前方をJRの線路が行く手を阻む。 現在の街道ルートは、上の写真の角を右折して線路反対側に伸びる旧街道に迂回する。

しかし 昔の見付宿跡を見に行くため、そのまま直進して田子の浦方向に足を延ばす。
緩やかな坂を上っていくと、えんま堂と六地蔵が並ぶ富士山絶景ポイントが現れた。 それにしても天気の回復が早く、青空が広がっていた。

鈴川港公園にも津波ひなんタワーが立っていた。

見付宿跡に向かう古道。 右は明光院。

”富士と港の見える公園”内に立つ「見付宿跡」碑。 高波や砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間に現在の鈴川・今江地区 つまり”元吉原”地区に移転して”吉原”と改名したそうだ。

公園内の展望台から富士山を望む。

「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」
山部赤人が詠み、万葉集に収められたこの歌はあまりに有名。 山部赤人が現在のこの景色を眺めたら、何を思うだろうか?
万葉の時代に少し思いを馳せた後、来た道を引き返し吉原宿を目指す。 次の見どころは左富士だ。

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