歌川広重の描いた東海道五十三次「蒲原 夜之雪」は、広重作品の中でも傑作の一つといわれ、雪がしんしんと降る夜の宿場を、蓑笠をつけた旅人が寒そうに身をかがめて行き交う姿を描いている。
一見すると雪国のようであるが、蒲原は海辺近くの温暖な地で、雪が積もることは少ないそうである。 どのような発想で雪景色で描いたのか、なかなか興味深い。
では歌麿の発想を探りに、富士川を渡って蒲原宿に行ってみよう。

蒲原 夜之雪
【コースデータ】
| 日付 | 区 間 | 宿間距離 | 日本橋から | |
| 4月25日 | 三島 | 沼津 | 1里半(5.9Km) | 30里9町(118.8Km) |
| 沼津 | 原 | 1里半(5.9Km) | 31里27町(124.7Km) | |
| 4月26日 | 原 | 吉原 | 3里22間(11.8Km) | 34里27町22間(136.5Km) |
| 4月27日 | 吉原 | 蒲原 | 2里半12町23間(11.2Km) | 37里21町45間(147.7Km) |
富士川を渡り岩淵の立場へ
吉原宿と蒲原宿間を流れる富士川は、街道一の急流で、日本三大急流の一つに数えられている。 渡るには船賃が1人16文(352円)の船渡しで、岸を離れた船は相当下流に流されたようだ。
橋の途中で振り返ると、水神社のあった水神の森が見える。 かつては右側まで広がっていたが、国道で南側が失われた。

橋を渡り終えると街道は右に曲がり、河岸段丘の急な坂を上って岩淵の立場へと向かう。 岩淵は東海道と身延道の分岐点であり、また甲州鰍沢との船便もあり、甲州からは年貢米、岩淵からは塩を運んでいた。
坂の途中から富士川を見下ろす。 雲がなければ川越しに富士山が見えるはずだが・・・

小休本陣 常盤家住宅
小休本陣は渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、建物は安政元年(1854)の大地震後に建て直されたものという。
富士川の渡船を控え、諸大名や公家が休憩に利用し、当時の上段の間が残されているが、宿泊は幕府から禁止されていたという。
本陣前で振り返れば、正面に富士山が見えるはずである。 しかし「今日は見えない」とボランティアガイドさんに話すと、「本当?」といってわざわざ表に出てきて、「本当だ!」とゲタゲタ笑っていた。


岩淵一里塚
秋葉山常夜燈。 享和3年(1803)建立とある。

岩淵一里塚。 日本橋から37里で、規模は小さくなっているようだが、道路を挟んで左右両塚が残る。


岩淵名物 ”栗の粉餅”
街道は駿河湾を目指して南下する。 途中に岩淵名物だったといわれる「栗の粉餅」を再現して売っている店がある。 これはもう買って帰る必要がある。
道路脇の秋葉山常夜燈。 火袋が新しいように見えるが、車にでもぶつけられて壊れたのか? 反射板を取り付けて、身を守っているように見える。

左奥から来て、この交差点を右折して新坂方向へ進む。 直進は七難坂ルートだったが、富士川の氾濫で崩壊したため、新坂ルートに付け替えられたという。

ここにも常夜燈が置かれている。 防災倉庫の前で消火器もあるので秋葉山常夜燈だろう。

東名高速のガードが見えてきた。 下を潜った所の三差路を左に曲がるが、岩淵から新坂にかけての東海道は、不自然に曲がることが多い。

岩淵名物 ”栗の粉餅”
岩淵で有名だった「栗の粉餅」を再現して販売する「ツル家菓子店」。 この日は自宅に帰るので、お土産に買って帰ることにした。

自宅に帰りさっそく頂いたが、中に細かくした栗が入り、上品な甘さの美味しいお菓子であった。 写真を撮るのも忘れて食べてしまった。
長くて勾配のある新坂を越えて
”ツル家菓子店”でお土産を仕入れて街道を進むと、新幹線の下を潜る。

新幹線を潜り抜け、中之郷小池の集落に立つ秋葉山常夜燈。 嘉永4年(1851)建立とある。

新坂ののぼりが始まる。 旧街道らしく左右にうねって進む。

坂の途中に佇む3体の馬頭観音。

新坂を上りきると、街道は東名高速により分断されて消失する。 高速に架かる新坂橋を渡ると、再び旧街道に繋がっている。

東名高速を越えると新坂は下りに転じ静岡市に入る。 街道の先に見える駿河湾に向け、新坂は一気に下っていく。

新坂の途中にある光蓮寺。 塀の内側に大きな石碑が並んで立っている。

源義経硯水へ
新坂を下りきると、街道は左に曲がって蒲原宿へと進む。 しかし右に曲がって「源義経硯水」へ寄り道する。

義経が奥州に向かう途中、三河で浄瑠璃姫と恋に落ちた。 その後義経は蒲原宿で病に倒れるが、浄瑠璃姫に手紙を書き、駆けつけた浄瑠璃姫の看病により回復した。
再び二人は別れ、義経は奥州へ旅立ち、浄瑠璃姫は故郷へ戻った。 しかし浄瑠璃姫の恋慕の情は絶ち難く、義経を追って奥州を目指したが、蒲原の地で倒れ世を去った。
ちなみに浄瑠璃姫の話に節をつけて語るようになったのが「浄瑠璃」の始まりだとか・・・
蒲原宿に入る
日本橋から15番目の宿場である蒲原宿。 古くは海岸沿いの古屋敷と呼ばれる地にあったが、元禄12年(1699)に発生した大津波により壊滅し、現在の地に移転した。 この時の津波で地元民や旅人も含め、60人ほどが波にさらわれたという記録が残るそうだ。
「源義経硯水」から街道に戻ると、すぐに蒲原一里塚跡がある。 日本橋から38里で、民家前に小さな社と一里塚跡の碑が立つ。

蒲原宿東木戸跡
東木戸跡の街道は桝形の名残りを残し、文政13年(1831)建立の常夜燈が置かれている。


山の斜面に巨大な導水管が並ぶ。 日本軽金属の発電用水路らしい。

渡邊家土蔵(三階文庫)
江戸末期に問屋を務めた渡邊家に残る三階建ての土蔵。 棟札から天保9年(1838)の建築とされ、四隅の柱が上に行くにつれて少しずつ狭まり、耐震性に優れた技法で建てられているといわれる。

「すまし」とは何か?
「イルカ すまし」って何だろう? 聞いたことはないし、イルカって食べるの?

なまこ壁を持つ佐野屋。 なまこ壁は自然災害に強い建築資材で、耐食性と耐久性に優れている。

用水路に沿って左に曲がると、「蒲原 夜之雪記念碑」が立つ。 1960年に国際文通週間の記念切手になったことを記念して建てられた。

江戸時代の上旅籠であった旅籠和泉屋。 現存する建物は天保年間(1830~44)の建築といわれ、2階の櫛の形をした手すりなどは洒落ている。

西本陣平岡家跡。 平岡家は明治期に京都へ転居し、当時の建物は残されていない。 また東本陣だった多芸家は江戸中期に途絶え、西本陣だけが幕末まで残った。

旧五十嵐歯科医院。 大正3年築の洋風建築だが、町屋を増改築した擬洋風建築である。

”ヤマロク”という屋号で味噌・醤油を醸造していた志田家。 主屋は安政の大地震(1854)直後に再建したものだという。

茄子屋の辻の大乱闘
街道は道なりに大きく左に曲がり、やがて国道396号にぶつかる。 この合流点に蒲原宿の京方出入口であった西木戸跡の碑が立つ。
蒲原宿西木戸跡
西木戸跡から蒲原宿方向を振り返る。

茄子屋の辻の大乱闘
この西木戸近くには青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」とも呼ばれていた。
承応2年(1653)、高松藩の槍の名人”大久保甚太夫”の槍の穂先が、薩摩藩の大名行列の槍と触れて乱闘が起こり、薩摩藩の70人近くを倒した。 しかし、最後は追っ手に見つかり殺されてしまったという。
この大久保甚太夫は蒲原宿内の龍雲寺に葬られ、その槍の穂先は寺宝として保存されているそうだ。
古屋敷古道
国道396号との合流点で左に目を転じると、すぐ先で細い道が右に分岐している。
元禄12年(1699)以前の古道で、この古道沿いの古屋敷と呼ばれた地域に蒲原宿はあった。 しかし元禄12年の大津波で壊滅的な被害を受け、現在地に移転した。

国道396号を蒲原駅に向けて歩く。

JR蒲原駅。 駅前は広いが何もなく、殺風景な感じである。

今回の旅はここで終了。 JRで三島に戻り、三島から新幹線で自宅に戻った。
三島から2泊3日で歩いたが、富士山が見えたのは1日、というより半日であったが、田子の浦からの富士山や、名勝といわれる左富士が見えただけでも良しとすべきだろう。
また蒲原宿は思っていた以上に街道風情を残す町並みであった。
次回は薩埵峠越えである。 必ず富士山が見える天気の日を狙って来るようにしよう。

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