東海道 第5宿 戸塚宿 本家「権太坂」を上って相模の国へ

江戸時代の旅人は、江戸を出発したその日は戸塚宿までの41.2Kmを歩いたという。 女性は手前の保土ヶ谷宿に泊まることが多かったというが、それでも日本橋から32.4Kmもある。

物見遊山的にたらたら歩くことなどせず、脇目もふらず、一心不乱に歩いていたのだろうが、それにしても凄い脚力である。

私の場合、日本橋を出発して3日目である・・・

旅行日:2025年1月31日

戸塚 元町別道

【 戸塚 元町別道】

コースデータ
  • 日 付  : 2025年1月31日
  • 宿間距離 : 神奈川宿~保土ヶ谷宿  1里9町(4.9Km)
         : 保土ヶ谷宿~戸塚宿   2里9町(8.8Km)
  • 日本橋から: 累 計 10里半(41.2Km)
  • 万歩計  : 21,359歩

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

権太坂を目指して

保土ヶ谷宿の上方見附跡を出発し、権太坂目指して静かな住宅街の中を進む。

東海道

路傍の祠に祀られた石仏。  左は青面金剛の庚申塔だろうが、右は「堅牢地神塔」と彫られている。 調べると大地をつかさどる地の神だそうだ。

堅牢地神塔

本家「権太坂」を上る

毎年正月は母校の走りに一喜一憂しながら箱根駅伝を見ている。 この箱根駅伝で走る権太坂は新道の国道1号だが、本家「権太坂」は北側の旧東海道にあり、新道の権太坂より傾斜は急だそうだ。

旧街道の権太坂入口。 江戸を出発した旅人の最初の難所であり、今よりずっと急勾配で、一番坂と2番坂とあったそうだ。

権太坂

一番坂と思しき坂の途中に、「権太坂改修記念碑」と道祖神が祀られる祠が立つ。

昔はもっと傾斜はきつく、当然舗装などされていないので、馬の背から荷物を降ろさないといけないほどだったと云われている。

権太坂

坂の途中で横浜新道の上を越える。 現在の権太坂は頂上まで宅地化されてしまい眺望はないが、ここからは眺めが良い。

権太坂

旅人が耳の遠い老人に坂の名を尋ねると、自分の名を聞かれたと思った老人が「権太」と答えたことが「権太坂」の名の由来と説明されている。

権太坂

投込塚の碑

権太坂を上り終え、境木中学校の前で街道は右に曲がるが、左に曲がると権太坂で行き倒れた人々を埋葬した「投込み塚」の碑が立つ。

昭和30年代に住宅地としてこの辺りを開発する際、おびただしい数の人骨や馬の骨が発掘されたそうだ。

この人骨はかつて権太坂を上りきれずに行き倒れた人や動物の遺骨で、ここにはそのような遺体を投げ込む井戸があったことが分かったという。

投込塚之跡

今はかつての急坂はすっかり整備されて緩やかになっているが、往時はひとたび雨が降ると足元はぬかるんで滑りやすくなり、滑落して命を落とす者までいたというから驚きである。

武蔵国から相模国へ

境木中学校の前で街道は右に曲がり、武蔵国と相模国の国境に向かう。

相模の国というと現在の神奈川県をイメージするが、川崎や横浜は武蔵国に属していた。 それも小さな漁村や農村があるだけの辺境の地で、横浜が歴史に登場するのは、江戸末期の開港以降であることを改めて認識した。

茶屋本陣若林家

境木立場茶屋の若林家がこの付近にあった。 立派な黒塀や門を供えたお宅が若林家だろうか?

茶屋本陣若林家

境木地蔵尊

武蔵国と相模国の国境に立つ境木地蔵尊。 天井には改修時に描かれた花天井がある。

境木地蔵尊
境木地蔵尊の言い伝え

鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が、「江戸に行きたいので、運んでくれたらこの海を守ろう」と土地の漁師の夢枕に立った。

そこで漁師たちが江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなったためお堂を立てて安置したところ、それからは村が繁昌したそうだ。

武相国境モニュメント

武蔵国と相模国の国境で、江戸時代には傍示杭(ぼうじぐい) あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられている。

現在のモニュメントは平成17年(2005)に設置された。

武相国境モニュメント
武相国境

焼餅坂と品濃坂を下る

武相国境モニュメントの所で相模国に入るが、すぐに焼餅坂の下りになる。 焼餅が名物だった茶屋が並んでいたので「焼餅坂」と名が付いた。

木々が生い茂り、歩道には松も植えられ、権太坂に比べて街道の雰囲気を少し保っている。

焼餅坂

坂を上り返す途中に、竹やぶを背にしてポツンと石仏が立つ。 このような何気ない風景が、旧街道の風情を豊かにしている。

焼餅坂

品濃一里塚

日本橋から9里。 神奈川県内で唯一左右の塚が完全な形で残るそうで、下の写真は東側の大きな塚。 上部に柵が見えるが、この柵の向こう側に一里塚公園があり、そこに一里塚があるようだ。

品濃坂

品濃坂を下る

正面にJR東戸塚駅前にあるオーロラシティを見ながら進むと、やがて大山や富士山が望めるようになる。 しかし霞んでいたため、写真では良くわからない。

品濃坂

道路は右に曲がっていくが、旧東海道はまっすぐ階段を下る。

左の標柱には「品濃坂上」とあり、この先まだ下りが続くようである。

品濃坂

現代の品濃坂は環状2号という幹線道路の頭上を陸橋で越え、さらに住宅街の中を下っていく。

品濃坂

朝早く江戸を発ち戸塚宿を目指す旅人にとって、品濃坂は宿場まであと一歩となる。 逆に江戸に向かう旅人には、最後の急な上り坂で、ここを越えれば境木の立場まであと一息という坂であった。

戸塚宿へ

品濃坂を下ると小さな川や柏尾川に沿って進み、国道1号や旧道に出たり入ったりしながら戸塚宿を目指す。

大山前不動

国道1号の不動坂交差点の手前で大山道の旧道が分岐し、その分岐点に大山前不動が祀られている。

小さなお堂の前には、「従是大山道」の大きな道標や、灯篭、庚申塔などが立つ。

大山道道標

不動前交差点で左の旧道に入り、「鎌倉ハム」発祥の地と云われるレンガ造りの倉庫を見ながら先に進む。

戸塚宿 江戸方見附と吉田一里塚跡

戸塚宿の江戸方見附跡に到着。 宿場の中心はもう少し先の戸塚駅からだったようだが、江戸から40Kmを歩いてきた旅人は、さぞかしホッとしたことだろう。

江戸方見附跡

吉田一里塚(戸塚一里塚)跡を示す標柱が立つ。 明治期の早い時期に取り壊されたようだ。

戸塚一里塚跡

JR戸塚駅へ

旧街道は矢部団地入口交差点を右に入って戸塚駅に向かうが、そのまま直進して戸塚駅に向かう。

東海道線を地下道でくぐる県道の上は公園となっており、そこに「山王祠」がある。 コンクリートで造られたような祠だが、江戸時代から庚申塔が祀られていたらしいが、現在は空であった。

山王祠

戸塚駅東口に到着。 自由通路で西口に行けるが、今回はここで終了。

戸塚駅

「お江戸日本橋七つ立ち」というわらべ歌があるが、昔の旅人の朝は「七つ立ち」。 つまり午前4時前後に出発し、当然街灯もないので日が暮れる前には宿場に着くようにしていた。

日本橋から保土ヶ谷宿までは32.4Km、戸塚宿までだと41.2Kmである。 この距離を1日で歩いたのである。 それも舗装もされていない道をわらじで歩いて・・・

私は日本橋から3日もかかってしまったが、決して昔の人の真似をしようとは思わない・・・

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次