江戸から28番目の和田宿。 次の下諏訪宿まで、5里18町(約22Km)と距離があり、更にその間には中山道最大の難所といわれる和田峠が控えている。
和田峠の標高は約1600m、登り口の男女倉からの標高差は500mほどである。 この難所を越えるため、または下諏訪宿から無事に峠を越した、多くの大名や旅人がこの宿場に逗留した。
幕末の文久元年3月(1861)、火災で本陣他、宿場の大半が焼失。 しかしその年の11月に皇女和宮の下向があり、幕府より2000両の借金をして街並みを復旧させたという。
旅行日:2017年5月19日
- 日 付 : 2017年5月19日
- 街道地図 : 芦田宿 ~ 和田宿
- 宿間距離 : 芦田宿 ~ 長久保宿 1里 16町(5.7Km)
: 長久保宿 ~ 和田宿 2里 0町 (7.9Km)
日本橋から: 累 計 49里 7町(193.2Km) - 万歩計 : 21,941歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
和田宿を目指す
長久保宿をでると、街道はやがて国道142号に合流する。
交通量は多いが歩道がない・・・ 路肩を歩くすぐ脇を、大型トラックがうなりを上げて掠めていく。
途中振り返ると水田に水が入り、のどかな風景が広がっていた。

四泊一里塚跡
「四泊落合(よどまりおちあい)」の標識が立つところから、旧道が右に分岐している。

旧道に入ると、すぐに四泊一里塚跡の説明版が立つ。
榎の大木があったが、昭和35年(1965)の道路改修時に伐採されてしまったそうだ。

落合橋から水明の里へ
四泊落合の旧道を抜け、再び国道142号を進む。
現在の国道は大和橋を通過しているが、橋手前を左に進み落合橋を目指す。 往時の中山道は、大門川と依田川に架かかる二つの「落合橋」を通過していた。

再び国道142号に合流するが、すぐ先の青原交差点で右に折れると「水明の里」という名の公園で、馬頭観音などが数体並んでいた。


ここから和田宿までは、国道を離れた静かな旧街道を歩くことになる。
下和田の街道風景
左右の山が迫る中を街道は伸びるが、街道沿いのバス停が立派である。 藁葺屋根や、下の写真のようなバス停が次々と現れる。

ミミズの双体道祖神
スカートを穿いたようなミミズの双体道祖神。 正しくは「蚯蚓(きゅういん)の碑」というらしく、少し離れた山中に蚯蚓神社があるそうだ。

三千僧接待の碑
諸国遍歴の僧一千人を接待した記念に建てられたが、その後三千人に達したため、”一”の上に”二”の字を彫って”三”にしたという。

街道沿いには招き猫が旅人を見守っている。 思わず「宝くじ・・・」と拝んでしまう。

のどかな下和田上組集落をいく。


若宮八幡神社と芹沢一里塚跡
大きな木立の中に立つ若宮八幡神社。 享保6年(1721)建立とある。
ここには武田信玄との戦いに敗れ自害した、和田城主の大井定信父子の首級を埋葬したと伝わる。

すぐ先には日本橋から49里目の芹沢一里塚跡の碑が立つ。

和田宿に入る
中山道の最高地点にして最大の難所といわれた和田峠(標高約1600m)を控えた和田宿は、隣りの下諏訪宿まで五里八町(約22キロ)ほどあったため、逗留する諸大名や旅人も多く、長久保宿同様に、信濃26宿の中では規模の大きい宿場町であった。
文久元年(1861年)3月、和田宿の大半を焼失する火災が発生。 しかし この年の11月に皇女和宮一行の宿泊が決定されていたことから、幕府の援助と住民の努力により見事に町並みを再生し、未曾有の大行列を無事に迎えたという。
和田宿の入口には「是より和田宿」と彫られた大きな石碑が迎えてくれる。

お洒落な和田小学校。 授業中なのかひっそりとしていた。

和田城主・大井氏の居館の鬼門除けとの言い伝えがある八幡神社。 見事な入母屋造りの屋根を持ち、改修前の古い茅葺屋根の社殿は、18世紀前期のものだったそうだ。

和田宿中心部へ
和田新田バス停を過ぎ、追川橋という小さな橋を渡ると、和田宿の中心部に入る。
出桁造りに連子格子といった旅籠の建築様式を持つ建物が並び、宿場の雰囲気を良く残している。
旅籠かわち屋は文久元年3月(1861)の大火で焼失したが、皇女和宮下向の際に再建された。 現在は「歴史の道資料館 河内屋」として公開されている。

旧問屋跡「山本屋」 かわち屋の斜め向かいに、一段高いところに立つ。

旧旅篭「大黒屋」 雨戸が閉められているが、旅籠の雰囲気は充分にある。

旅籠の雰囲気を持つ建物。 昔の屋号も何も表示されておらず、個人宅なのかもしれない。

和田宿本陣・長井家 と 脇本陣・翠川家
和田宿本陣の長井家は、文久元年の大火後、皇女和宮宿泊の為突貫工事で再建されたという。
受付の女性の話によると、大名や和宮が宿泊した上段の間がある座敷棟は、借金返済のために売却され、現在の本陣門前の道路がその跡地だそうだ。
また焼失前の江戸時代から使っていた床材が、1枚だけ残っているそうである。 見るとその1枚だけ他とは異なり、歴史を帯びた重厚な黒光りをしていた。




こちらは脇本陣の翠川家。 和田宿に2軒あった脇本陣の一つで、現在は格式の高さを感じられる上段の間や二の間を持つ御殿部分が残る。 残念ながら非公開である。

和田宿 街道風景
本亭旅館跡。 2012年頃まで営業していたようで、このような所に宿泊すれば、江戸時代の旅人気分になれたかもしれない。

上和田バス停付近から和田峠方向を望む。 和田峠までは、この先まだ長い。

見事な卯建と、白壁の土蔵を持つ「よろずや」。 今後もコンビニなどに業態変更せず、このままでいてもらいたい。

芦田宿、長久保宿と歩いてきた今回の旅はここで終了。 上和田のバス停から、途中長久保でバスを乗り換えて上田に出て帰途に就く。
上田の駅には六文銭が・・・

日本橋を出発してから、毎回日帰りで第28宿の和田宿まで歩いてきた。 累計で16日も要し、昔の旅人なら京都に到着しているはずである。
次回和田峠を越えるには、もう日帰りではきつい。 どこかに泊まっての和田峠越えだが、天気の良い日を狙って来ることにしよう。 楽しみである・・・

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