下諏訪宿から塩尻宿に向けては、少し北上しながら西に向けて歩いてきた。 しかし塩尻宿を出ると進路を変更し、いよいよ木曽谷を目指して南下することになる。
洗馬宿は善光寺西街道との追分で、宿場には飯盛女もいて結構繁盛していた。 残念ながら昭和7年の大火で、本陣、脇本陣、貫目改所も焼失し、昔の面影を忍ぶことは困難となった。
しかし塩尻からの街道沿いには、「雀おどり」(雀おどし)と呼ばれる、松本平特有の棟端飾りを持つ家が多い。 松本平の古民家にみられるデザインで、日本の美しい景色を残している。
旅行日:2019年4月6日 ~ 4月7日
- 2019年4月6日
- 区 間 : 下諏訪駅~塩尻(平出一里塚)
- 街道地図 : 下諏訪駅~平出一里塚
- 万歩計 : 24,509歩
- 2019年4月7日
- 区 間 : 塩尻(平出一里塚)~洗馬宿~本山宿~贄川宿
- 街道地図 : 平出一里塚~贄川宿
- 万歩計 : 25,250歩
- 宿間距離 : 下諏訪宿 ~ 塩尻宿 2里 33町(11.5Km)
塩尻宿 ~ 洗馬宿 1里 30町(7.2Km)
洗馬宿 ~ 本山宿 0里 30町(3.3Km)
本山宿 ~ 贄川宿 2里 0町(7.9Km) - 日本橋から累計 62里 10町(244.6Km)
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
塩尻の中心部に向けて
塩尻東小学校の前に「是より塩尻宿」の碑が立つ。 塩尻宿の京方出口であるが、現在の塩尻中心部とはずいぶん離れている。

国重要文化財・堀内家住宅 風格ある「雀おどり」を持つ家
旧堀の内村の庄屋を勤めていた堀内家。 築200年という本棟づくりで、この雀おどりは最高傑作といわれている。 よく見ると石置き屋根になっている。

国道153号と合流する大小屋交差点には、大きな道祖神が並ぶ。

国道に合流するが、すぐ先で左の細い路地のような旧道に入る。 しかし200mほどで田川に行く手を遮られ、再度国道に戻ることになる。

木曽路に向け南下を開始
国道は下大門交差点で三叉路となり、街道は左の道に進んで木曽路に向けて南下を始める。 一方 国道は右に離れていくが、三叉路の中央の道を進めば、現在の塩尻の中心となるJR塩尻駅である。
耳塚
大門神社の先に「耳塚」という祠があり、祠の中にはたくさんのお皿やお椀が奉納されている。 耳の形に似た皿やお椀に穴をあけて奉納すると、耳の聞こえが良くなるそうだ。
人間ドックの聴力検査に毎回引っかかるが、私も奉納したほうが良いかもしれない。

平出一里塚へ
耳塚から先に進むと、JR中央本線(東線)のガードをくぐる。

ガードをくぐると、無機質で味気ないコンクリート塀が一直線に続く。 昭和電工の工場である。

平出一里塚
日本橋から59里の平出一里塚。 両塚が原形を残し、よく手入れされている。 道路脇の一里塚は南塚で、北塚は民家の裏にある。


下諏訪を出発し、塩尻峠を越えた1日目はここで終了とした。 平出遺跡交差点を右に曲がり、中央西線の線路沿いを歩いて塩尻駅に戻り、塩尻市内のホテルに宿泊する。
平出集落と「雀おどり」
塩尻市内で一泊した翌朝、駅から地域振興バス「すてっぷくん」を利用して「平出遺跡口」で下車。 神秘的な水を湛える「平出の泉」から、中山道の旅を続ける。
「平出の泉」のある平出集落には、「雀おどり」が多くみられる。
平出の泉
透明でエメラルド色の水を湛える平出の泉。 鍾乳洞から水が湧き出ているそうだ。

「雀おどり」か「雀おどし」か?
平出集落には屋根に「雀おどり」を乗せた本棟造りの家を多く見ることができる。
本棟造りとは切妻屋根の妻入りの造りで、勾配の緩い大屋根の棟端に「雀おどり」が飾られる風格ある家である。
似たような棟飾りを最初に見たのは、坂本宿手前の「五料茶屋本陣」である。 この時は「雀おどし」と教えられたが、松本平では「雀おどり」と呼ばれているようだ。








平出遺跡
平出集落から街道に出る途中に平出遺跡がある。 縄文時代の住居跡で、佐賀の吉野ケ里、静岡の登呂と合わせて日本三大遺跡に数えられているそうだ。

平出遺跡から平出一里塚に出て、街道歩きを再開する。
一面ブドウ畑が広がる桔梗が原を進むが、塩尻はワインの産地としても知られている。 正面に北アルプスを望めるはずだが、残念ながら雲がかかって見えない。

街道は中央西線を越え、やがて中山道一里塚交差点で国道19号にぶつかり左折。 しばらく国道を歩くと、コスモ石油の裏手に砂利道が分岐している。 中山道の旧道で、250mほどが残る。

肱懸松と善光寺街道との分去れ
平出歴史公園交差点で国道19号を横断し、県道304号に入ると洗馬宿はもう近い。 洗馬宿は、長野の篠ノ井あたりから分岐してくる善光寺西街道と合流する地でもある。
肘懸(ひじかけ)松
前方に「細川幽斎肱懸松」という松が見えてくる。 「細川幽斎」は戦国武将の細川藤考で、妻は細川ガラシアである。
細川藤孝がこの松に肘をかけて「肘懸けて しばし憩える 松陰に たもとすずしく 通う河風」という歌を詠んだといわれている。 また徳川2代将軍の秀忠も肘をかけて休んだというが、どのような恰好で休んだのか?

肱懸松の下から、右に分岐する細い坂道を下る。 直進する県道は、昭和7年(1932)の洗馬大火後に拓かれた新道である。

「肘松の坂」とか「相生坂」と呼ばれる坂を下ると、大きな常夜灯が立つ。 中山道と善光寺西街道の分去れである。 この付近が洗馬宿の枡形だった。

分去れを左折して洗馬宿に入っていくと、肱懸松の所で別れた県道と合流する。 合流地点には昭7年の新道開通後に、枡形跡から移された「右中山道 左北国往還善光寺道」の道標が立っている。

洗馬宿 木曽義仲伝説の地名
日本橋から31番目の宿場。 善光寺西街道との追分であったことから、善光寺詣での人々で賑わっていた。 しかし昭和7年の大火で大半を焼失し、宿場の面影を失った。
「邂逅(あふた)の清水」
洗馬宿に入り、案内板に従って右への階段を下ると「邂逅(あふた)の清水」がある。
木曽義仲と義仲四天王の一人である今井兼平が邂逅し(落ちあい)、疲弊しきった義仲の馬を兼平がこの清水で洗うと、みるみるうちに回復したという。 洗馬という地名はこの故事が由来となった。
「今井兼平」という名は知らなかったが、この先木曽路で今井兼平の子孫を名乗る人物と出会うことになる。

洗馬宿風景
洗馬宿は昭和7年の大火のため、宿場風景を失っている。 しかし静かなたたずまいを見せている。
JR洗馬駅に立ち寄ってみる。 風情ある駅舎で、無人駅であった。

本陣や脇本陣跡を示す標柱が立つ。 本陣、脇本陣の庭は「善光寺名所図会」に紹介されたほどの名園だったが、今はJR洗馬駅の構内と化している。


洗馬宿の町並み。 大火で宿場の大半を焼失したというが、人通りも無く静かで、どことなく旧街道の雰囲気が漂っている感じもする。

洗馬公園の前には洗馬宿碑と高札場跡碑が立つ。 このあたりが洗馬宿の京方出口である。

北アルプスの山に行くときは、新宿から松本への中央本線東線、または車を利用した。 そのため中央線沿いの町や地名には馴染みがある。 しかし塩尻から名古屋方面への中央西線は使うことがなかったので、駅名や地名はほとんど知らない。 「洗馬」などは、中山道に興味を持って初めて知った地名である。
これから木曽に向けて何回か通ううちに、かなり詳しくなりそだ。

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