日本橋から旧東海道をコツコツ歩き続け、19番目の宿場・府中宿(現静岡市)に到着した。
静岡といえば徳川家康が駿府城を築き、晩年を過ごした隠居地である。 そして今際の際に残した4つの遺言に沿って、久能山東照宮に埋葬された。
この家康ゆかりの地を結ぶ「レイライン」と呼ばれる、まるで都市伝説か歴史ミステリーのような説がある。
詳細な日本地図もない時代なので、数百キロ離れた地点までの間にポイントを配置するなどは極めて困難だったはずである。
しかし「歴史ロマン」として考えれば、一度は訪れておいても良いだろう。
ということで、徳川家康が大御所として晩年を過ごした駿府城と、パワースポットとして知られる久能山東照宮を訪れてみた。 さらに乗るバスを間違え、登呂遺跡に連れていかれるという、おまけ付きの旅となってしまった。
旅行日:2025年12月6日
駿府城
清水駅前から旧東海道を歩き、早めに静岡市内に到着したので、そのまま駿府城を訪れることにした。 駿府城の天守台は壊されてしまったが、江戸城を上回る日本最大級の規模を誇っていたそうだ。
歴史を見ると面白い
静岡市中心部に駿府城公園が広がっている。 徳川家康が晩年を過ごした駿府城址である。
元々は室町時代初期に今川氏の拠点「駿府館」があったが、桶狭間の戦いで没落した。 代わって入ったのは甲斐の武田信玄だが、今川氏の居館や駿府の町を焼き払い、江尻城を築いて拠点とした。
その後武田氏が滅亡し、駿河が徳川の領地となると、家康は駿府城を築城して浜松から移った。
さらに小田原北条氏の滅亡後、家康は江戸に移り江戸幕府を樹立。 そして将軍職を息子の秀忠に譲ると駿府城で隠居の身となったが、実際は「大御所」として絶大な権力を保持した。
家康の死後、秀忠の三男が城主となったが不行跡を理由に上州高崎に改易。 その後幕末まで城主不在で、幕府からの城代が管理していた。
最後は大政奉還により廃城。 静岡市に払い下げられ、建造物は払い下げか取り壊しとなった。
このように戦国時代を絵にかいたような歴史を持つ城だが、東御門から入城してみよう。
巽櫓と二ノ丸東御門
三ノ丸堀に架かる城代橋から大手門方向を見る。

巽櫓。 平成元年(1989)に復元された。 すぐ奥の東御門と隣接している。

二ノ丸東御門は平成8年(1996)に復元され、高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門である。

東御門橋を渡り桝形へ。

東御門の中から櫓門を見る。 東御門の中は展示室となり、駿府城や城下町の模型などが展示されている。

坤櫓(ひつじさるやぐら)
安政元年(1854)の安政大地震で崩壊し、再建されることなく明治4年に廃城。 そして崩壊から160年後の平成23年(2014)に復元された。
時間がなかったので中に入らなかったが、床板が外されて1階から3階までの内部構造が見えるらしい。 しかし「坤」という字を「ひつじさる」とは、とても読めない。

天守閣発掘
駿府城の天守閣は寛永12年(1635)に火災で焼失。 その後再建されずに廃城となった。 そして明治時代に陸軍歩兵第34連隊が入り、天守台は取り壊され、その土砂で本丸掘りは埋められたという。
現在は天守台の発掘調査が行われ、発掘現場を見ることができた。
(注)発掘現場が見学できる「見学ゾーン」は、2025年12月26日に閉鎖された模様。

三ノ之丸大手御門
駿府城の正面出入口となる大手門。 渡り櫓は消失しているが、立派な石垣が残る。

もっと見どころは多くあるようだが、時間があまりなかったため足早に見て回ったのが残念である。 できればもう一度訪れて、ゆっくり見て回りたいものである。
バスを間違え登呂遺跡へ連れていかれる
ホテルへ一泊した翌朝、久能山東照宮へ行こうと静岡駅南口から「東大谷」行きのバス停に並んだ。 先客にやはり久能山を目指すと思われるグループが、リュックを背負って並んでいた。
出発する時刻が近づきバスが到着したが、行先も確かめずに前に並ぶグループについてバスに乗り込んだ。 そしてしばらく走ると「登呂遺跡入口」のアナウンスが・・・
「遺跡ってこの辺なんだ・・・」などのんきに考えていたら、バスは左折し「次は終点 登呂遺跡」
「えぇ~ぇ!」 前に並んでいたグループも登呂遺跡で下車し、そのままどこかへ消えていった・・・ 「おぃ! お前たち!!」と言いたいが、ボケっとしていた自分が悪い。
運転手さんに聞くと、「登呂遺跡入口」のバス停まで歩いて戻り、そこで「東大谷」行きを待てばよいとのこと。 少し時間があったので、ついでに登呂遺跡を回ってみた。




中山道の塩尻宿と洗馬宿の間にある平出遺跡も訪れたが、どこも似たようなものである。
家康の4つの遺言
家康は元和2年(1616)に没したが、4つの遺言を残したという。
・遺体は駿河の久能山(静岡)に葬り、西向きに蹲踞(そんきょ)させる。
・葬儀は江戸の増上寺で行う。
・位牌は三河の大樹寺(愛知県)に納める。
・一周忌後は下野の日光山(栃木)に小さな堂を建てて勧請し、「八州の鎮守」となる。
この4つの遺言が守られ、1周忌に日光東照宮に改葬されたが、久能山と日光との位置関係から、レイラインと呼ばれる説が存在する。
家康をめぐる3本のレイライン
レイライン(Lay Line)とは、古代の遺跡や聖地、神社や教会などが地図上で一直線に並ぶことを指している。
徳川家康に関しては、上記4つの遺言に絡んだような数本のレイラインが知られている。 これらは本当に考えて作られたものなのか、単なる偶然なのか興味は尽きない。
「不死(富士)の道」:神として蘇る
久能山(静岡)と日光東照宮を地図上で結ぶと、その直線上に富士山が位置する。
富士山は古来より「不死」に通じるとされ、不老不死の霊峰と考えられていた。 そして 遺体を久能山に納め、一周忌に日光へ移すという遺言は、「富士山を越えることで、家康が永遠の命を持つ神(東照大権現)となる」ということを意味しているそうだ。
ちょっと考えすぎのような気もするが・・・
「北辰の道」:江戸を鎮護する
日光は江戸からみて北東の鬼門に位置し、風水では「北極星(北辰)」の方向だという。 この北辰に祀られることで、死後も江戸(幕府)を護るためとか伝わるが、本当に遺骸が移されたか否かは怪しいそうだ。
また久能山と日光を結び、さらに江戸を結ぶことで、徳川の治世を揺るぎないものにするための巨大な結界を張ったという説もあるそうだ。
実に想像力が逞しい・・・
「太陽の道」:徳川のルーツを結ぶ
久能山に西を向いて埋葬することが遺言にあるが、久能山から真西に線を引くと、家康ゆかりの重要な場所が並ぶそうだ。
- 鳳来寺山: 家康の両親が子授け祈願をした場所。
- 岡崎城 : 家康が誕生した場所。
- 大樹寺 : 徳川(松平)家の菩提寺。。
これは西国勢力(豊臣残党など)に睨みを利かせるとか、故郷である岡崎や蓬莱寺などに愛着があったなどの説がある。
ではレイラインの始点でもある久能山へ、足を伸ばそう。
久能山東照宮へ
久能山東照宮へのアクセスは、日本平からロープウェイというルートが一番楽そうであるが、あまりに安易すぎる。
静岡駅前から静鉄バスで終点「東大谷」で下車し、「久能山下」行きのバスに乗り換えるという面倒はあるが、久能山下から1159段の石段を汗水たらして上ることに価値がある。
今回は思わぬ登呂遺跡訪問のため時間が狂い、東大谷でのバス乗り換えの便が悪く、30分近くの待ち時間が生じてしまった。
1159段の石段に挑戦
久能山下に到着。 頂上部にある一ノ門まで17曲り1159段の階段上りである。 ちょっと頑張ってみよう・・・

勾配はあるが階段の段差は低くて歩きやすい。 山と同じで、一定のペースでゆっくり登れば、息が弾むこともない。

一ノ門に到着
石段を登り続け、下から見上げた「一ノ門」に到着。

一ノ門前で振り返ると、駿河湾の先に伊豆半島が望める。

駿河湾の右手にはビニールハウスが並ぶ。 イチゴの栽培だろう。

東照宮境内
一ノ門から先に進むと、階段の上に楼門がお出迎え。

楼門にある家康の手形を見て先に進むと、参道の先に御社殿が見えてきた。

御社殿の右手にあった神庫。 奈良正倉院と同じ校倉造りで、博物館ができるまで宝物類が納められていたという。

国宝の御社殿へ到着。 日光東照宮より小さいが、派手さは劣らない。 全国にある東照宮の原型で、元和3年(1617)に建立された最古の東照宮建築だそうだ。

御社殿からさらに石段を上がった境内最奥部に立つ神廟。 家康の遺骸が埋葬された廟で、遺言により西向きに立つそうだ。

帰りは日本平から
東照宮の訪問を終え、帰りはロープウェイを使って日本平に向かう。 日本平からは遠く静岡市内が見えていたが、南アルプスは見えなかった。

静岡おでんを食べて帰ろう
日本平から静岡駅までのバスは意外と時間を要したが、無事静岡駅に到着。
東海道線の蒲原駅に降り立ち、由比宿から薩埵峠を越え、興津・江尻 そして府中宿と歩いた今回の旅はこれで終了。 少し時間に余裕があったので、駅ビルの中にあった静岡おでんを食べて帰ることにした。
ビールのお供に黒いおでんを食べながら、パワースポットである久能山で何か感じたかを考えたが、残念ながら全く感じなかった。 まぁ鈍感で霊感ゼロということだろう・・・

2泊3日の東海道歩き旅であるが、1日を街道以外の観光に費やした。 リタイヤした身なので、時間は十分にあるから良いが、元気に歩けるのは残り何年だろうか? あまりのんびりしていると、足腰が弱って京まで辿り着けなくなる。
もう少し頑張ろうとは思うが、これからは寒い冬。 4月の桜の季節まで冬眠しよう・・・

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