中山道 第36宿 宮ノ越宿 木曽義仲と共に闘った巴御前は「便女」だった

暑い夏を避け、9月から中山道歩きを再開する予定であった。 しかし相次ぐ台風の襲来と、それによる中央線特急「あずさ」の運休や中央高速の不通などが続いたが、ようやく交通状況が元に戻った10月末に再開することができた。

前回は鳥居峠を越えて藪原宿まで歩いたので、今回はその続きで藪原宿から出発。 次の宿場である宮ノ越宿を目指したが、宮ノ越は宿場というより、木曽義仲と巴御前が観光の目玉となっている町だった。

そして巴御前は勇壮な女武者だったと思っていたが、いろいろ調べた結果「便女」という役割だったことを知った。

旅行日:2019年10月31日~11月2日

【コースデータ】

日付区 間宿間距離日本橋から
2019年10月31日藪原宿宮ノ越宿1里33町(7.5Km)67里15町(264.8Km)
宮ノ越宿福島宿1里28町(7.0Km)69里7町(271.7Km)
2019年11月1日福島宿上松宿2里14町(9.4Km)69里7町(271.7Km)
上松宿倉本駅3里09町(12.8Km)71里21町(281.1Km)
2019年11月2日倉本駅須原宿
須原宿野尻宿1里30町(7.2Km)74里30町(293.9Km)
合 計11里06町(43.9Km)

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

藪原駅に降り立つ

快晴の10月31日。 5か月ぶりに藪原駅に戻ってきた。 藪原の駅舎は、明治43年(1910)の中央本線開業当時の木造駅舎だそうだが、古さは感じない。

藪原駅

木曾川の清流のご対面

鳥居峠を越えるまでは日本海に向けて流れる奈良井川を眺めて歩いたが、藪原を出ると太平洋に注ぐ木曽川を初めて目にする。 ここから木曽路を抜けるまでの長い付き合いとなる。

木曽川

国道19号の獅子岩橋手前のガードレール切れ目から、廃道となった旧国道に入る。

旧国道から木曽川対岸を走る現国道を見ると、鳥居峠の大きなレリーフが見える。

鳥居峠レリーフ

木曽川に架かる「菅橋」。 昭和8年建設の木曽谷で初めての鉄筋コンクリートアーチ橋で、かつての中山道を支えていた。 現在は土木遺産として認定されている。

木曽川菅橋

旧中山道と吉田洞門

廃道となった旧国道から現在の国道に合流した先に、山中に入る林道がある。 旧中山道であるが途中で道は消えているとのこと。 現在は吉田洞門を通る。

旧中山道

木曽川を眺めながら、吉田洞門の側道を進む。 旧中山道は、この吉田洞門の上の山腹を通っていたようだ。

吉田洞門

吉田洞門を出て国道19号を進むと、ドライブインの手前にたくさんの石塔が立つ。 国道拡幅時に移設されたもののようだ。

石仏石塔群

廃道となった旧国道を歩く

旧中山道は山吹山の山腹を通って巴淵に通じていたが、崩壊して通行は困難だそうだ。

現在は国道19号の山吹トンネル手前で、廃道となった旧国道に入って木曽川沿いに山裾を進む。 しかしこの道は、基本的に立ち入り禁止となっている。

吉田一里塚跡

吉田橋で木曽川を渡り右岸にでる。 やがて国道19号は山吹トンネルとなるが、トンネル手前にひっそりと吉田一里塚の石碑が立つ。 日本橋から67里で、中山道の中間点はもう近い。

吉田一里塚

廃道となった旧国道を行く

山吹トンネル手前を木曽川が流れるが、この橋の手前に右に分かれる旧国道がある。

廃道となったので車は入れないが、ガードレールの隙間から木曽川沿いの静かな旧国道に入る。

山吹山旧国道

廃道マニアが好みそうな静かな道。

山吹山旧国道

廃道となったため手入れはされず、落ち葉に覆われている。

山の斜面上を行く旧中山道は崩壊したようだが、この旧国道も自然に帰ろうとしているようだ。

山吹山旧国道

旧国道の木曽町側出口には立入禁止のゲートと看板が設置されている。 廃道で落石などもあるかと思うので、通行時には十分な注意が必要である。

山吹トンネル出口の先で旧国道と現国道の19号が合流するが、この合流点の反対側から伊那に通じる国道361号が分岐する。 姥神峠と権兵衛峠を越えて伊那に通じる権兵衛街道である。

巴御前の伝説を秘める巴淵

巴淵交差点で国道に別れを告げ、徳音寺集落から宮ノ越宿方向に向かう。

宮ノ腰宿

巴淵

国道を離れ、中央本線のガードを潜ると木曽川の巴淵である。 木曾川の流れが巴状に渦巻くことから、巴淵(ともえがふち)と名付けられたそうだ。

巴淵

エメラルド色の深い淵で巴御前が水浴したと伝わり、この淵に棲む竜神が巴御前に化身したとの話も伝わる。

巴淵

宮ノ越宿

今は消えた山吹山を越える旧中山道は、巴淵に架かる巴橋を渡ったところに出てきた。 ここからは旧中山道を進んで日本橋から36番目の宿場である宮ノ越宿に入るが、この宮ノ越宿は明治16年(1883)の大火により宿場の面影は失われた。

この宮ノ越宿は木曽義仲(源義仲)が幼少期を過ごし、平家追討の挙兵をした地として知られ、旗揚八幡宮や徳音寺など、木曽義仲にまつわる地名や旧跡が多く残る。

徳音寺集落

巴淵を後にして進むと、静かな徳音寺集落である。

旧中山道

有栖川宮御小休之跡の石碑が立つ手塚家。 明治6年(1873)に有栖川宮幟仁(ありすがわたるひと)親王と薫子妃が中山道を通行した際、ここ手塚太左衛門宅で小休止したという。

有栖川宮幟仁親王といえば、皇女和宮と婚約していたが、公武合体政策により婚約を破棄され、徳川家に和宮を取られてしまったことで有名である。 その後戊辰戦争で新政府軍の総大将として、「俺の女を返せ~ぇ!!」と江戸に攻め入った。(個人の推察です・・・)

有栖川宮御小休之跡

旗揚八幡宮

街道を進み葵橋で木曽川を渡る。 この葵橋は木曽義仲のもう一人の愛妾「葵御前」にちなんだ名称である。 葵御前は木曾義仲の傍につき従って各地を転戦したが、倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしたという。

葵橋で木曽川を渡り、街道を離れて旗揚八幡宮を訪れる。 この旗揚八幡宮は治承4年(1180)に木曾義仲が一千騎あまりを従え、平家追討の旗挙げの際に戦勝を祈願したと伝わる。

旗挙八幡宮

社殿の傍らには義仲の元服を祝って植えられたとされる、周囲12mという大けやきが立つ。

旗挙八幡宮

木曽義仲と巴御前の墓が残る徳音寺

義仲館

宮ノ越宿と木曽川を挟んだ対岸に、木曽義仲の生涯を紹介する「義仲館」がある。 一歩中に入ると、義仲と薙刀を持った巴御前が出迎えてくれた。

木曽義仲と巴御前

瀬戸内の大三島にある大山祇神社の宝物館を訪れたとき、源義経奉納の鎧とか武蔵坊弁慶の薙刀に交じって、「伝 木曽義仲奉納 鎧」「伝 巴御前使用 薙刀」が展示されていた。 まさにのけ反るほどの驚きの品々である。

徳音寺

木曽義仲が、母の小枝御前の菩提を弔うために建立したという徳音寺の山門。

徳音寺

奥の墓所にある木曽義仲の墓。

木曽義仲の墓

木曽義仲の墓を中心に、母・小枝御前、今井四郎兼平、巴御前、樋口次郎兼光など木曽一族の墓が並ぶ。 左の大きな墓が巴御前で、享年91歳とあった。 

木曽一族の墓
木曽義仲とは

木曽義仲(源義仲)は源頼朝や源義経の従兄弟にあたる。 後白河法皇より平家追討の命を受け、木曽の地で旗挙げを行い、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛の軍を破った。 この時数百頭の牛に松明を付けて敵陣に突入した話は有名である。

破竹の勢いで入京を果たし、朝日将軍と讃えられ征夷大将軍に任ぜられたが、皇位継承問題への介入や京の治安回復に失敗。 法皇の謀いにより、頼朝・義経軍に追われることとなり、粟津(滋賀県大津市)にて31歳の若さで討ち死にした。

便女(びんじょ)とは?

巴御前や葵御前の華々しい活躍は、後世の軍記物(平家物語や源平盛衰記など)による誇張や創作の側面が強く、実際の合戦における女性たちの役割は異なっていたという。

平安から鎌倉時代の武将たちは、戦場に「便女(びんじょ/びんにょ)」と呼ばれる女性を同行させ、その役割は食事の用意、衣服の洗濯、髪結いなどの身の回りの世話と夜の相手(愛妾)だったという。 巴御前も葵御前も、この「便女」として木曽義仲に同行していたと考えられているそうだ。 要するに木曽義仲は無類の女好きだったようである。

宮ノ越宿の町並み

宮ノ越宿付近は、現在は「日義村」という地名である。 明治7年に宮ノ越村と原野村の合併時、この地の英雄である「朝日将軍木曽義仲」の日と義をとって命名したと云われている。

宮ノ越駅入口。 徳音寺や義仲館と中山道を挟んだ反対側に宮ノ越駅がある。

宮ノ腰宿

宮ノ越宿本陣

宮ノ越宿は明治16年(1883)の大火で90軒近くを焼失し、本陣も主屋部分を失った。 しかし客殿部分は焼失を免れ、再生工事が完了して無料で公開されている。

宮ノ腰宿本陣

この一段高いところに、大名 つまりお殿様が座ったのだろう。

宮ノ腰宿本陣

宿場内の町並みは、あまり昔の姿をとどめていない。

宮ノ腰宿

旅籠であった田中邸が公開されている。 明治16年(1883)の大火時に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建された建物だそうだ。

旅籠田中邸

宿場の京方出口付近には、「南無阿弥陀仏」や「四国三十三所観世音菩薩」と彫られた大きな石塔群が立つ。

石塔群

宮ノ越宿を出て少し歩けば中山道の中間点で、ここを過ぎればいよいよ後半戦。 日本橋を出発したのは、2016年3月26日。 何と3年半かかってようやく半分である。

この間に足首を痛めたり、母の葬儀などが重なって1年9か月もブランクが空いてしまった。 とくに足の故障は酷く、一時は中山道歩きも諦めの境地であったが、何とか歩けるようになった。 無理せず、再発しないよう気を付けながら、後半戦に向けて歩を進めていこうと思う。

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