中山道 第29宿 下諏訪宿 中山道最高地点の和田峠を越える(2)

前日に和田峠登り口まで歩き、バスで長久保宿まで戻り浜田屋旅館に一泊。

6時に目が覚め、昨晩の雷を伴った雨も上がり、空には青空が広がっていた。 天気予報を見ると、午後から雲が広がるが大丈夫そうである。

宿で朝食を済ませ、更に昼食用に頼んでおいたお弁当を受け取り、長久保のバス停から男女倉口目指して出発する。

旅行日:2017年6月10日

コースデータ
  • 2017年6月9日
    • 区 間  : 和田宿~和田峠入口
    • 街道地図 : 和田宿~男女倉口
    • 万歩計  : 8,932歩
  • 2017年6月10日
  • 宿間距離   : 和田宿 ~ 下諏訪宿 5里 18町(21.6Km)
             日本橋から累計  54里 25町(214.8Km)

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

男女倉口に向けて出発

長久保から、昨日引き返した男女倉口にむけてバスで出発。

和田宿から下諏訪宿まで、約21Kmという長丁場だが、昨日和田峠入口まで歩いているので、この日は約15Kmほどの距離である。

長久保発7時38分の男女倉行の長和町循環バスで出発。 乗客は私一人で、長久保~男女倉口間の料金は100円。 本当に申し訳ない気がした。

長和町循環バス

男女倉口バス停から少し歩き、昨日引き返した和田峠への登り口に到着。

「熊に注意!」の看板もあり、念のため熊鈴をつけていざ出発である。

和田峠入口

いざ和田峠へ

男女倉の和田峠入口の標高は1100m。 峠の標高が1600mなので、標高差500mの登りである。 しかし地図の等高線を見ると、蓼科側からの登りは、さほど急ではないことがわかる。

三十三体観音像

観音坂を上ると、三十三体観音像が現れる。 かつてこの山中にあった熊野権現社に祀られていたもので、昭和48年(1973)に29体が発掘され、のこり4体は未発見とのこと。

三十三体観音

足元に咲く花々

山道沿いにクリンソウ(九輪草)が咲いていた。 円状で かつ数段重なって咲くので、五重塔など仏塔の先にある「九輪」に見立てたことが名の由来だそうだ。

クリンソウ

フタリシズカ(二人静)も咲いていた。

フタリシズカ

人馬施行所(接待茶屋)

視界が開け国道142号に出ると、人馬施行所(接待茶屋とも呼ばれる)が復元されている。

江戸の豪商・かせや与兵衛は幕府に金千両を預け、その利子百両で碓氷峠と和田峠に施行所を建てた。 そして冬期には旅人に粥や焚火を提供し、牛馬には通年で小桶一杯の煮麦を与えたという。

人馬施行所跡
人馬施行所跡

石畳と一里塚

人馬施行所の先で再び山道に入り、古そうな苔むした石畳が現れる。 昔からのものだろう。 往時の峠道の道幅が判る。

和田峠石畳

広原一里塚

山中にポッコリと丸い一里塚が残る。 日本橋から52里の「広原一里塚」で、左塚だけが残る。

広原一里塚

廃業した「東餅屋ドライブイン」

国道に合流して少し進むと「東餅屋ドライブイン」があり、名物の力餅などを供していたが、残念ながら廃業してしまった。

この付近には5軒の立場茶屋があり、人馬に休憩場所と力餅などを提供していたそうだ。

東餅屋ドライブイン跡

ビーナスラインを横切る

街道は霧ヶ峰と美ヶ原を結ぶビーナスラインを、数回横切って和田峠に向かう。

車で何度も通ったビーナスラインだが、その頃は中山道などにまだ興味はなかったので、中山道があるとは全く考えずに車を走らせていた。

山道を進むと、目の前にビーナスラインの擁壁が立ち塞がる。 街道はこの擁壁に開けられた「コールゲート」と呼ばれるパイプトンネルを潜ってビーナスラインを横切る。

ビーナスライン

トンネル内には沢が流れる。 ビーナスライン建設時、この沢が流れていた谷を埋めてトンネルを設けたのだろう。

ビーナスライン

このパイプトンネルを含め、和田峠頂上までにビーナスラインを3回横断する。

ビーナスライン

ヘアピンカーブを描くビーナスラインを横目に、街道は直線状に進んでいく。

ビーナスライン

和田峠頂上へ

ビーナスラインを3度目に横断すると、和田峠頂上はもう近い。

現在は営業していない和田峠スキー場を左に見ながら進む。 芝生が敷き詰められた様な、非常に歩きやすい道で気持ち良く歩ける。

和田峠

標高1600m。 和田峠(古峠)に到着。

男女倉口から登り始めて1時間50分弱であった。 峠に立つと、諏訪側から吹き上げる風がすごく強かった。

和田峠

峠からは御嶽山や木曽駒ケ岳が望めるはずだが、この日は残念ながら雲の中であった。

和田峠

和田峠を下る

男女倉口からは、誰にも会わずに登ってきたが、峠には山菜取りやハイキングに来たグループがいた。 話を聞くと、車を途中に停めて上がって来たとのこと。

しかし諏訪側から吹き上げる風が強く、20分の休憩で下諏訪目指して下り始める。

水飲み場

「七曲り」の急坂をジグザグに下ると、「水飲み場」と呼ばれる苔むした水鉢と、右は石仏だろうか? しかし見事なまでに苔に覆われ、時の流れを感じさせてくれる。

和田峠水飲み場

山菜の取れたてワラビを貰う

峠でお会いした山菜取りのご夫婦に再びお会いする。

「今日は家に帰る」と話すと、「これ持ってけ!」と大量のワラビを頂いた。

わらび

西餅屋茶屋跡と西餅屋一里塚跡

和田峠からの下りも、途中国道を横切りながら下る。

ビーナスライン

視界が開けると西餅屋茶屋跡。 東餅屋と同様に立場が置かれ、ここには4軒の茶屋があった。

西餅屋茶屋跡

西餅屋茶屋跡の先で再び国道を横断し、ガードレールの切れ目から山道に入る。

やがて立派な一里塚跡の石碑が現れる。 日本橋から53里の西餅屋一里塚跡である。

西餅屋一里塚跡碑

登山道らしいガレ場を進み国道に合流

急傾斜の斜面に付けられた細い道を下り、ガレ場も現れて登山道らしくなってくるが、つまづいたり浮石に乗らないよう注意して歩けば問題はない。

和田峠
和田峠

道が平坦になると、やがて国道に合流。 この先の旧道は藪の中に消失ししたため、国道をしばらく歩くことになる。

和田峠

下諏訪宿に向けての国道歩き

和田峠を下り、交通量の激しい国道142号を歩く。 それもしばらくは歩道も無い道である。

普通 山から下ると林道 又は 静かな集落の中に降り立ち、しばらくは山の余韻に浸ることができる。 しかしこの和田峠は、唐突に現実世界に引き戻される。

水戸浪士の墓(浪人塚)

しばらく国道を歩き、左に分岐する道へ入ると「浪人塚」とも呼ばれる水戸浪士の墓がある。

京を目指す尊王攘夷派の水戸浪士一行(水戸天狗党)と、これを阻止するために高島・松本両藩が元治元年(1864) 10月20日に戦い、水戸浪士の戦死者がここに埋葬された。

浪人塚

樋橋茶屋本陣跡

火の見櫓の立つ分岐を左に入り、国道を挟んでS字状に曲がる旧道に入る。 ここには樋橋(とよはし)茶屋本陣があり、皇女和宮が休息したそうだ。

桶橋茶屋本陣跡碑

旧道を歩く

樋橋茶屋本陣跡から再び国道を進むと、右の石材置場の所から旧道が分岐している。 分岐点には中山道案内板が立ち、右に下る草付きの道に入る。

中山道旧道

旧道はじめじめとした草付きの踏み跡のような道を進む。

中山道旧道

産廃処理施設内の「樋橋一里塚」

国道を更に進むと右に産廃処理施設があり、この施設内に日本橋から54里の樋橋一里塚跡がある。

残念ながら私有地で入ることはできないかと思ったが、道路脇の案内板には「一里塚跡碑 私有地を通るため、特に大型車にご注意ください」とある。 入っても良いようなニュアンスだが、案内板だけ見て先に進む。

樋橋一里塚跡

長い国道歩きを終え下諏訪宿へ

長かった国道歩きを終え、町屋敷の分岐に到着。 この分岐を左に入れば、諏訪大社から下諏訪宿へはもう近い。

町屋敷分岐

男女倉の登り口から峠まで1時間50分。 峠から国道の合流点までの下りが1時間10分であった。

この和田峠は、佐久側からの登りはハイキングコース。 峠から諏訪側への下りは一変し、傾斜も含めて山らしい登山道へと変貌する。

浅田次郎の小説「一路」にあるように、冬の積雪期に諏訪側から和田峠を越えるには、相当難渋したことだろう。

下諏訪宿まであと少し。 頑張って歩を進めよう。


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