前日に和田峠登り口まで歩き、バスで長久保宿まで戻り浜田屋旅館に一泊。
6時に目が覚め、昨晩の雷を伴った雨も上がり、空には青空が広がっていた。 天気予報を見ると、午後から雲が広がるが大丈夫そうである。
宿で朝食を済ませ、更に昼食用に頼んでおいたお弁当を受け取り、長久保のバス停から男女倉口目指して出発する。
旅行日:2017年6月10日
男女倉口に向けて出発
長久保から、昨日引き返した男女倉口にむけてバスで出発。
和田宿から下諏訪宿まで、約21Kmという長丁場だが、昨日和田峠入口まで歩いているので、この日は約15Kmほどの距離である。
長久保発7時38分の男女倉行の長和町循環バスで出発。 乗客は私一人で、長久保~男女倉口間の料金は100円。 本当に申し訳ない気がした。

男女倉口バス停から少し歩き、昨日引き返した和田峠への登り口に到着。
「熊に注意!」の看板もあり、念のため熊鈴をつけていざ出発である。

いざ和田峠へ
男女倉の和田峠入口の標高は1100m。 峠の標高が1600mなので、標高差500mの登りである。 しかし地図の等高線を見ると、蓼科側からの登りは、さほど急ではないことがわかる。
三十三体観音像
観音坂を上ると、三十三体観音像が現れる。 かつてこの山中にあった熊野権現社に祀られていたもので、昭和48年(1973)に29体が発掘され、のこり4体は未発見とのこと。

足元に咲く花々
山道沿いにクリンソウ(九輪草)が咲いていた。 円状で かつ数段重なって咲くので、五重塔など仏塔の先にある「九輪」に見立てたことが名の由来だそうだ。

フタリシズカ(二人静)も咲いていた。

人馬施行所(接待茶屋)
視界が開け国道142号に出ると、人馬施行所(接待茶屋とも呼ばれる)が復元されている。
江戸の豪商・かせや与兵衛は幕府に金千両を預け、その利子百両で碓氷峠と和田峠に施行所を建てた。 そして冬期には旅人に粥や焚火を提供し、牛馬には通年で小桶一杯の煮麦を与えたという。


石畳と一里塚
人馬施行所の先で再び山道に入り、古そうな苔むした石畳が現れる。 昔からのものだろう。 往時の峠道の道幅が判る。

広原一里塚
山中にポッコリと丸い一里塚が残る。 日本橋から52里の「広原一里塚」で、左塚だけが残る。

廃業した「東餅屋ドライブイン」
国道に合流して少し進むと「東餅屋ドライブイン」があり、名物の力餅などを供していたが、残念ながら廃業してしまった。
この付近には5軒の立場茶屋があり、人馬に休憩場所と力餅などを提供していたそうだ。

ビーナスラインを横切る
街道は霧ヶ峰と美ヶ原を結ぶビーナスラインを、数回横切って和田峠に向かう。
車で何度も通ったビーナスラインだが、その頃は中山道などにまだ興味はなかったので、中山道があるとは全く考えずに車を走らせていた。
山道を進むと、目の前にビーナスラインの擁壁が立ち塞がる。 街道はこの擁壁に開けられた「コールゲート」と呼ばれるパイプトンネルを潜ってビーナスラインを横切る。

トンネル内には沢が流れる。 ビーナスライン建設時、この沢が流れていた谷を埋めてトンネルを設けたのだろう。

このパイプトンネルを含め、和田峠頂上までにビーナスラインを3回横断する。

ヘアピンカーブを描くビーナスラインを横目に、街道は直線状に進んでいく。

和田峠頂上へ
ビーナスラインを3度目に横断すると、和田峠頂上はもう近い。
現在は営業していない和田峠スキー場を左に見ながら進む。 芝生が敷き詰められた様な、非常に歩きやすい道で気持ち良く歩ける。

標高1600m。 和田峠(古峠)に到着。
男女倉口から登り始めて1時間50分弱であった。 峠に立つと、諏訪側から吹き上げる風がすごく強かった。

峠からは御嶽山や木曽駒ケ岳が望めるはずだが、この日は残念ながら雲の中であった。

和田峠を下る
男女倉口からは、誰にも会わずに登ってきたが、峠には山菜取りやハイキングに来たグループがいた。 話を聞くと、車を途中に停めて上がって来たとのこと。
しかし諏訪側から吹き上げる風が強く、20分の休憩で下諏訪目指して下り始める。
水飲み場
「七曲り」の急坂をジグザグに下ると、「水飲み場」と呼ばれる苔むした水鉢と、右は石仏だろうか? しかし見事なまでに苔に覆われ、時の流れを感じさせてくれる。

山菜の取れたてワラビを貰う
峠でお会いした山菜取りのご夫婦に再びお会いする。
「今日は家に帰る」と話すと、「これ持ってけ!」と大量のワラビを頂いた。

西餅屋茶屋跡と西餅屋一里塚跡
和田峠からの下りも、途中国道を横切りながら下る。

視界が開けると西餅屋茶屋跡。 東餅屋と同様に立場が置かれ、ここには4軒の茶屋があった。

西餅屋茶屋跡の先で再び国道を横断し、ガードレールの切れ目から山道に入る。
やがて立派な一里塚跡の石碑が現れる。 日本橋から53里の西餅屋一里塚跡である。

登山道らしいガレ場を進み国道に合流
急傾斜の斜面に付けられた細い道を下り、ガレ場も現れて登山道らしくなってくるが、つまづいたり浮石に乗らないよう注意して歩けば問題はない。


道が平坦になると、やがて国道に合流。 この先の旧道は藪の中に消失ししたため、国道をしばらく歩くことになる。

下諏訪宿に向けての国道歩き
和田峠を下り、交通量の激しい国道142号を歩く。 それもしばらくは歩道も無い道である。
普通 山から下ると林道 又は 静かな集落の中に降り立ち、しばらくは山の余韻に浸ることができる。 しかしこの和田峠は、唐突に現実世界に引き戻される。
水戸浪士の墓(浪人塚)
しばらく国道を歩き、左に分岐する道へ入ると「浪人塚」とも呼ばれる水戸浪士の墓がある。
京を目指す尊王攘夷派の水戸浪士一行(水戸天狗党)と、これを阻止するために高島・松本両藩が元治元年(1864) 10月20日に戦い、水戸浪士の戦死者がここに埋葬された。

樋橋茶屋本陣跡
火の見櫓の立つ分岐を左に入り、国道を挟んでS字状に曲がる旧道に入る。 ここには樋橋(とよはし)茶屋本陣があり、皇女和宮が休息したそうだ。

旧道を歩く
樋橋茶屋本陣跡から再び国道を進むと、右の石材置場の所から旧道が分岐している。 分岐点には中山道案内板が立ち、右に下る草付きの道に入る。

旧道はじめじめとした草付きの踏み跡のような道を進む。

産廃処理施設内の「樋橋一里塚」
国道を更に進むと右に産廃処理施設があり、この施設内に日本橋から54里の樋橋一里塚跡がある。
残念ながら私有地で入ることはできないかと思ったが、道路脇の案内板には「一里塚跡碑 私有地を通るため、特に大型車にご注意ください」とある。 入っても良いようなニュアンスだが、案内板だけ見て先に進む。

長い国道歩きを終え下諏訪宿へ
長かった国道歩きを終え、町屋敷の分岐に到着。 この分岐を左に入れば、諏訪大社から下諏訪宿へはもう近い。

男女倉の登り口から峠まで1時間50分。 峠から国道の合流点までの下りが1時間10分であった。
この和田峠は、佐久側からの登りはハイキングコース。 峠から諏訪側への下りは一変し、傾斜も含めて山らしい登山道へと変貌する。
浅田次郎の小説「一路」にあるように、冬の積雪期に諏訪側から和田峠を越えるには、相当難渋したことだろう。
下諏訪宿まであと少し。 頑張って歩を進めよう。

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