2017年6月に和田峠を越えて下諏訪宿まで進んだ後、9月に左足首を痛めてしまった。 靴も履けず、ズリズリと足を引きずるように歩き、毎週楽しんでいたバドミントンも長期離脱であった。
この足の痛みがとれるのに1年近くを要し、昨年秋に中山道歩きの再開を目論んだが、母が亡くなり葬儀などか続いて再開はできなかった。
未だに無理をすると痛みがぶり返すなど不安は残るが、とにかく再開しようと、約1年9か月ぶりに下諏訪の駅に降り立ち、塩尻峠を越えて木曽の入口を目指して歩き始めた。
旅行日:2019年4月6日 ~ 4月7日
- 2019年4月6日
- 区 間 : 下諏訪駅~塩尻(平出一里塚)
- 街道地図 : 下諏訪駅~平出一里塚
- 万歩計 : 24,509歩
- 2019年4月7日
- 区 間 : 塩尻(平出一里塚)~洗馬宿~本山宿~贄川宿
- 街道地図 : 平出一里塚~贄川宿
- 万歩計 : 25,250歩
- 宿間距離 : 下諏訪宿 ~ 塩尻宿 2里 33町(11.5Km)
塩尻宿 ~ 洗馬宿 1里 30町(7.2Km)
洗馬宿 ~ 本山宿 0里 30町(3.3Km)
本山宿 ~ 贄川宿 2里 0町(7.9Km) - 日本橋から累計 62里 10町(244.6Km)
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
約2年ぶりの中山道は中央線で始まった
日本橋から和田峠を越えて下諏訪宿までは、高崎線や長野新幹線を利用した。 しかし 久しぶりに再開した中山道の旅は、新宿からの中央線の利用に変わった。
これまでは最寄駅から40分ほどで東京駅に出て、すぐに新幹線に乗り換えられた。 しかし中央線となると、東京駅で乗り換えて新宿へ・・・
特急あずさを利用しても、新宿から下諏訪まで2時間以上かかってしまう。

しかし中央線は車窓から南アルプスや八ヶ岳の眺めを楽しめる。 右の三角い山は甲斐駒ヶ岳。

下諏訪から路地裏のような街道を抜けて進む
下諏訪駅に降り立ち準備を整え、足の様子をみながら そろりと歩み始める。 駅から国道に出て左折し、すぐに右に分岐する旧道へと入る
魁塚(相楽塚)
幕末の戊辰戦争時、明治新政府軍の先鋒隊として下諏訪まで進撃した赤報隊。 しかし新政府に裏切られ、偽官軍の汚名を着せられ、この下諏訪で隊長の相楽総三以下8名が斬首となった。
この塚はかつての同志たちにより建立され、さらに昭和3年(1928)には偽官軍の汚名は返上され、名誉回復したそうだ。

幕末の戊辰戦争時、相楽総三により結成された赤報隊は、西郷隆盛の指示で年貢半減令を布告しながら明治新政府軍の先鋒隊として中山道を進撃。 しかし赤報隊の悪い風聞が広がってしまった。
一方 新政府は財政乏しいため、秘かに年貢半減令を取消してしまう。
そして赤報隊の悪い風聞を利用し偽官軍の汚名を着せ、「年貢半減令は赤報隊のでっち上げ」という話にして赤報隊を捕縛・斬首へとつながった。
そもそも赤報隊の悪い風聞は、新政府が意図的に流したとも云われている。
その黒幕は!! またしても岩倉具視・・・ と言われている。
街道とは思えない路地に入る
魁塚から住宅街を進みT字路にぶつかり、街道は行く手を阻まれる・・・ と思うが、民家と民家の間の隙間のような路地が中山道である。
「入っても良いのか?」と思うような、幅1mにも満たない路地である。 しかし残念なことに、砥川の堤防工事で全面通行止め! 写真に収めて国道に迂回する。

国道の富士見橋を渡り砥川の対岸に回ると、再び砂利道の狭い路地となって旧街道が復活する。

塩尻峠への道
細い路地を抜け、十四瀬川という細い川を小さな木橋で渡ると下諏訪市から岡谷市へと入る。
伊那道と初期中山道への曲がり角
「おひぎりさま」と呼ばれる日限地蔵尊を祀る平福寺を過ぎると、長地東堀交差点角に「右中仙道 左いなみち」と刻まれた道標が立つ。
左に曲がると伊那谷を経て中山道妻籠宿へ繋がるかつての伊那道であるが、中山道贄川宿手前の桜沢に通じる初期中山道の道筋でもあった。 しかし小野峠と牛首峠を越えなければならないため、慶長19年(1614)に塩尻峠越えの道筋に付け替えられた。

出早口交差点で国道20号を越えて道祖神などを見ながら進むと、やがて長い黒塀を持つ茶屋本陣・今井家である。 塩尻峠を越えてきた参勤交代の大名や皇女和宮などが休まれたという。

塩尻峠に向かって伸びる街道に立つ道標。 「右しもすは 左しほじり峠」と刻まれている。

塩尻峠越え 難所ではないが意外ときつい
中央高速入口である国道20号岡谷IC交差点を跨道橋で越えると、塩尻峠への登りが始まる。
いまから40年ほど前、中央高速がまだ岡谷までしか伸びていなかった頃に、子供を連れて北アルプスの山に良く出かけた。
山からの帰り道、塩尻峠にある「やまびこ公園」で遊んで帰ったが、子供たちは今でもやまびこ公園を覚えているという。
石舟観音と金明水
国道20号を越え、塩尻峠に向けて坂を上ると、右の急階段を上がると馬頭観音を祀る岩船観音がある。 足腰の弱い人の信仰を集めているといわれ、多くのわらじが奉納されている。

石舟観音へのもう一つの階段下には、金名水と呼ばれる清水がこんこんと流れ落ち、冷たくて美味しい水であった。

大石
だらだらとした上り坂をさらに進むと、街道脇に大きな岩が出てくる。 「大石」という名で、盗賊がこの岩に隠れて旅人を襲ったそうだ。
「木曽路名所図会」にも紹介されているそうだだが、どこから転がってきたのだろう?

塩尻峠頂上
大石を過ぎると街道の勾配は増し、息が上がってくるが、やがて標高1060mの塩尻峠頂上である。
塩尻峠は塩嶺峠とも呼ばれ、諏訪平と松本平を繋ぎ、中央分水嶺にある峠の一つである。 岡谷側に降った雨は天竜川から太平洋に流れ、松本側の雨は犀川から日本海へと注ぐ。

展望台から八ヶ岳と諏訪湖を眺める。 反対側に目を転じれば北アルプスを遠望できるが、残念ながら雲の中であった。

上条(柿沢)茶屋本陣 立派な雀おどりを持つ
峠に別れを告げ、数分下ると立派な「雀おどり」を持つ上条(柿沢)茶屋本陣である。
本棟造りと呼ばれる造りで、現在は普通の民家として使われているそうだ。

さらに数分下ると、木立の中に親子のような2体のお地蔵さまが鎮座している。 天明の大飢饉の際、塩尻峠で行き倒れた人々を弔ったそうだ。

親子地蔵の横に「伝説 夜通道(よとうみち)」と書かれた白い標柱が立ち、「いつの頃か、片丘辺の美しい娘が岡谷の男と恋仲になり、男に会うために、毎夜この道を通った」と記されている。
今でも陽が落ちれば街灯もない真っ暗な道になるのだろう。 このような夜道を娘一人で歩くとは愛の力か、はたまた狂気のなせる業なのか? そしてこの二人は無事結ばれたのか? 想像の膨らむ伝説である。
東山一里塚
日本橋から57里目の東山一里塚。 南塚だけが残る。

緩やかな坂を下り続け、塩尻峠を下り終えると国道20号に合流する。 しかしすぐに旧道が分岐して静かな道を塩尻市街に向けて進む。

雀おどりが見られる柿沢集落へ
”みどり湖PA”を見ながら、長野自動車道を越える。 山に行くとき良く利用するPAだが、頭上を中山道が横切っているとは夢にも思わなかった。
柿沢集落に入ると、豊かさを感じる趣のある街道風景か続く。 正面は乗鞍岳だろう。

永井坂の首塚・胴塚
街道から少し外れた畑の中に、「首塚・胴塚」というギョッとする名の塚がある。
天文17年(1548)、甲斐の武田信玄と松本藩・小笠原長時の軍が闘い、小笠原軍は破れて多くの戦死者を出した。 そして村人たちが戦死者を弔い、ここに埋葬したそうだ。

雀おどり
柿沢集落では、棟端に雀おどりを持つ本棟造りの家が増える。 風格のある家である。

太った鳥居のようなものが道を跨いでいる。 祭の時に提灯とかをぶら下げるのか?

柿沢集落を抜け国道153号に合流すると、右奥に永福寺が見える。 木曽義仲ゆかりの寺で、義仲が信仰した馬頭観世音を本尊としている。

塩尻宿に入る
日本橋から30番目の宿場。 伊那や松本へ通じる街道の分岐点で、交通の要衝であった。 そのためか旅籠が75軒と、中山道の中で2番目に規模の大い宿場であった。
しかし明治16年の大火で本陣や脇本陣など町の大部分を焼失。 往時の面影は殆ど失われた。
柿沢一里塚
塩尻宿の入口となる仲町交差点に石碑が立つ。 日本橋から58里である。

三州街道追分
三州街道は中山道の脇往還で、別名伊那街道とも呼ばれる。 伊那谷を経て岡崎に至り、太平洋側の海産物や塩を信州の内陸部まで運ぶ「塩の道」であった。
この三州街道を運ばれる塩は表塩で、日本海で採れる塩は千国街道を経て運ばれ、裏塩と呼ばれている。 この表塩と裏塩の接点となる地なので、「塩尻」との地名になったそうだ。

十王堂跡碑と石塔群
十王堂跡碑の横には、庚申塔や双体道祖神などの石塔が並ぶ。

旅籠いてふ屋
明治16年の大火を免れた、元旅籠「いてふ屋」の小野家住宅。 「いてふ屋」という名は、今風に呼べば「いちょう屋」である。
塩尻市HPによると、天保2年(1832)築だそうだ。

塩尻宿本陣跡
塩尻宿の川上本陣は、明治16年の大火で焼失。 この近辺には高札場が復元され、上問屋跡や脇本陣跡を示す標柱も立つ。

笑亀酒造
「笑亀(しょうき)」という銘柄の造り酒屋。 買って帰ろうと思ったが、帰りは明日なので止めにした。

塩尻宿京方出口
国道153号から右の旧道への分岐に「中山道鉤の手跡碑」が立つ。 京方出口の枡形であった。

分岐した旧道に入り、阿礼神社の先にある塩尻東小学校の前には、「是より塩尻宿」の碑が立ち、塩尻宿の京方出入口を示している。

塩尻宿は明治期の大火により多くを焼失し、宿場の面影は殆ど残されていない。 しかし失われた遺構の場所を示す標柱が多く立ち、往時の賑やかさを想像できる。
また明治に入り中央線の塩尻駅が開設されると、残念ながら街の賑わいは駅を中心とした地域へ移ったようだ。
下諏訪から塩尻に向けて西に進んできたが、この先の下大門の交差点を左折して南西へ進路を変え、いよいよ木曽路を目指すことになる。

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