いよいよ東海道最初の難関・箱根越えである。
昔の人は小田原宿を早朝に出発し、急勾配の石畳を上り、面倒な関所を越え、日の暮れぬうちに三島宿に着くため、疲れた足に鞭打って急坂を転げるように下ったことだろう。
しかし現代の私は違う! 小田原から三島まで、なんと2泊3日もかけて箱根を越えるという、大名以上の贅沢旅行である。
箱根越え初日は、小田原から箱根湯本にある北条一族の菩提寺・早雲寺までの短い距離を歩く。
旅行日:2025年4月3日~4月5日

【 箱根 湖水図】
- 日 付 : 2025年4月3日
- 宿間距離 : 小田原宿 ~ 箱根宿 4里8町(16.6Km)
*このうち早雲寺までの5.9Kmを歩く - 日本橋から: 累 計 24里35町(98.1Km)
- 万歩計 : ?????歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
小田原城を横目に
早朝に自宅を出発し、小田原に到着。 駅そばで腹を満たし、今にも降り出しそうな雲行きの中を出発する。
桜咲く小田原城を横に見て、前回終了した国道1号の「御幸の浜」交差点を目指す。

小田原宿
前回は小田原宿の東側(江戸側)を歩いたので、今回は御幸の浜交差点から西に向かって歩く。
最初に現れたのは小西薬局。 江戸期からの商家で、歴史を感じる佇まいを持つ店構えである。

ういろう本店
「ういろう」というと名古屋を思い起こすが、小田原の「ういろう本店」を調べて、とんでもない歴史を持っていることを知った。
中国の元でという国で「外郎」という役職に就いていた役人が、家伝薬「透頂香(とうちんこう)」を持って博多に亡命し、役職だった「外郎」を名乗ったことが始まりだという。 その子孫が足利義満の招聘で京に上り、さらに北条早雲に誘われて小田原に移住したという。
家伝薬「透頂香(とうちんこう)」は「ういろう」と名を改め、さらに接待用のお菓子として「ういろう」を小田原で500年以上作り続けているそうだ。

「ういろう本店」の向かいには、清水彦十郎本陣跡の標柱が立つ。
出雲の松平家や岐阜大垣の戸田家などの大名が定宿としていたと説明されている。

早川口の南町歩道橋から国道1号を振り返る。 国道が拡幅され、街道の面影は失われている。

居神神社
新井城主(三浦半島)の三浦義意は、北条早雲に攻められ自刃。 ここの松の木に首を晒されると、行き交う人々を睨み続け、恐れられたという。

板橋見附
居神神社のすぐ先が板橋見附。 小田原宿の京方出入口である。
説明版を見ると、この写真付近に足軽組長屋が続き、矢来門を出ると街道は右に曲がり、すぐその先で左に曲がる枡形になっていたようだ。 現在もその道筋は残っている。

板橋のお地蔵さま
小田原宿を出ると、街道は箱根登山鉄道沿いに旧道や国道1号を進んでいく。 途中にある風祭とか入生田といった集落は、建物は新しくなっているが、街道らしい雰囲気を残している。
板橋地蔵尊
”板橋のお地蔵さま”と呼ばれ、地元の信仰を集めた。
当地で死者が出ると、その家族や縁者は3年間にわたりこのお地蔵さまに参詣する風習があり、また毎年1月と8月の縁日に参詣すると、故人に似た人に会えるという。

箱根登山鉄道の下を潜ると国道1号に合流し、その先は早川と台地に挟まれた狭い場所に、箱根登山鉄道や国道が集まっている。

風祭から入生田へ
小田原厚木道路の先で踏切を越えて旧道に入り、風祭(かざまつり)の集落に入る。
箱根登山鉄道の風祭駅。

日本橋から21里の風祭一里塚跡説明版と、お地蔵様や道祖神などの石塔が並ぶ。 一里塚の横には高札場もあったという。

招大寺 春日局ゆかりの禅寺
入生田(いりゅうだ)に入ると招大寺がある。
江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺で、祖母の春日局の墓もあるという。
また境内裏手にある枝垂桜が有名で、訪れた時は満開だったようで、駐車場には警備員が配置されていた。 しかし雨のせいか、訪れる人は殆んど無かった。

入生田の町並み。 途中から降り出した雨の中、静かな街道を傘をさして歩く。

風祭や入生田は、箱根の雲助たちの故郷だそうだ。 この雲助には荷物を運ぶ「人足」の他、駕籠をかつぐ「駕籠かき」や、馬を引く「馬子」といった仕事もあった。
この「雲助」というと、街道を旅する人達を脅しすかして金品を巻き上げるような、悪いイメージがある。
しかし実際には宿場の問屋場に登録制で、問屋場が仕事を割り振っていたので、無許可の人足が入り込む余地はなかったようである。
三枚橋へ
山崎の古戦場
入生田を過ぎ、さらに山崎の集落から国道に合流する地点に「山崎の古戦場碑」が立つ。
戊辰戦争の局地戦の一つで、官軍が江戸に向かう途中、幕府の遊撃隊と衝突。 この時、幕府側の伊庭八郎と官軍側の小田原藩士・高橋藤太郎が一騎打ちを行い、高橋は討ち死に、伊庭は左手を失ったという。

国道横の箱根登山鉄道に、ロマンスカーが走る。

歩道の柵には大名行列を模した飾りが並ぶ。 江戸時代には多くの大名が行き交ったのだろう。

国道を左に曲がって三枚橋で早川を渡り、いよいよ箱根への上りが始まる。

小田原北条一族の墓所へ
三枚橋を渡ると、箱根芦ノ湖に向けた上り坂が緩やかに始まる。

箱根駅伝の小田原中継所から芦ノ湖のゴールまで、標高差は800mあるそうだ。 北アルプスの涸沢と奥穂高岳との標高差が700m弱なので、結構な上りである。
白山神社の大岩
箱根湯本小学校の向かいに白山神社があり、地元温泉の護り神として崇められている。

静かな境内には、関東大震災(1923)や豆相地震(1930)でも微動だにしなかった大岩があり、受験や勝負の神さまとして信仰されているそうだ。

また豊臣秀吉が小田原征伐の際、この大岩を背に小田原方向を眺め、石垣山に一夜城を築くことを考えたとも伝えられる。
早雲寺 小田原北条一族の菩提寺
この日の目的地である早雲寺に到着。
小田原城を拠点に関東一円を支配した、北条早雲から5代氏直までの北条一族の墓所がある。
早雲寺惣門と本堂。 秀吉の小田原攻めの際、秀吉の本陣が置かれ、石垣山一夜城が完成すると寺は焼き払われたという。


北条早雲以下、氏綱、氏康、氏政、氏直の、五代にわたる北条一族の墓が並ぶ。

箱根湯本駅目指して山道を下る
この日の街道歩きは早雲寺で終了。 小田原に戻るため箱根湯本の駅に行くには、大きく回り道する必要がある。
近道はないかとGoogleMapを見ると、早雲寺裏手の早雲公園から駅に戻れる道がありそうである。
地元の人もあまり訪れてはいないような公園。 というより山道に入り、使用禁止となっている四阿の横に下り道を発見。 かなりの急坂を一気に下り始める。


雨で滑りそうな道を慎重に下り、早川に架かる「あじさい橋」を渡り、箱根湯本の駅構内に到着である。

明朝は早雲寺から箱根芦ノ湖を目指すが、この下ってきた山道を登り返すのは、朝から体力を消耗してしまう。 駅前のバスターミナルで調べると、旧道経由のバスがあることが判ったので、明朝はバスを利用することにする。
箱根湯本から小田原に戻り、時刻は13時半。 小田原の地魚丼とアジフライで腹を満たす。

この日の第2部 小田原城「総構」に向かう
お腹が満ちたところで、この日の第2部の開始である。
小田原城の「総構(そうがまえ)」の地図を貰いに、小田原駅構内にある観光案内所を訪ねると、「今日の雨で掘の底に水が溜まり、たぶん歩けないと思う」と言われてしまった。
「上からも見られるから・・・」と、とにかく行ってみることにした。
この「総構」訪問記は、下記を参照願います。
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