東海道 第17宿 興津宿(2) 「女体の森」とは? 妖しい響きの森を持つ神社

薩埵峠を下ると、日本橋から17番目の興津宿である。

薩埵峠を越えた、 または これから越えようとする旅人だけでなく、清見寺の門前町として、さらに身延道との分岐点として賑わい、明治・大正期には、避寒地として西園寺公望ら政財界の別荘地として栄えた。

そして「女体の森」という、なんとも妖しげで艶めかしい名を持つ地があり、思わず誘い込まれそうになる。

旅行日:2025年12月4日 ~ 12月6日

興津 興津川

【コースデータ】

日 付区 間宿間距離日本橋から
12月4日蒲原由比1里(3.9Km)38里21町45間(151.6Km)
由比興津2里12町(9.2Km)40里33町45間(160.8Km)
興津江尻1里2町(4.1Km)41里35町45間(164.9Km)
12月5日江尻府中2里25町(10.6Km)44里24町45間(175.5Km)
12月6日* 街道歩きは休み。 久能山東照宮へ寄り道して帰宅

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。

目次

薩埵峠上道を行く

薩埵峠を下り、さらに往還坂を下ると上道と中道の分岐(実際は十字路)となる。 この分岐を右に曲がり、上道を歩いて興津宿を目指す。

上道は明暦元年(1655)、朝鮮使節を迎えるにあたり幕府が開いた道で、参勤交代の大名達も通った道である。

街道沿いに秋葉山常夜燈が立つ。 薩埵峠を下った墓地のあたりで消滅した山沿いの旧道は、この辺りに出てきたようだ。

薩埵峠上道

往時を偲ばせる薩埵峠上道沿いの家々。

薩埵峠上道

瑞泉寺参道入り口。 ここにも常夜燈が立つ。

瑞泉寺参道入口。

街道は”おきつ川通り”に合流。 海岸線目指して興津川に沿って進む。

興津東町自治会館

興津川川越し場跡。 興津川は通常は徒歩渡しで、冬は仮橋が架けられたという。 現在は解説板が立つのみで、遺構などは何も残されていない。

興津川川越し場跡

この先で東海道線のガードをくぐると、薩埵峠の下道・中道からの道と合流し、右に曲がって浦安橋で興津川を越える。

浦安橋

橋を渡り終えたところで右に下り、東海道線の線路際の旧道を進む。 この道は興津川徒歩渡しの対岸付近なのだろう。 やがて街道は国道1号に合流する。

国道1号

「女体の森」といわれる宗像神社

思わず「オッ!」と声が出そうな標柱が立っていた。 「女体の森 宗像神社」とある。

「女体の森」とは、なんとも艶めかしい響きである。 「何があるのか?」 頭の中はめまぐるしく想像の渦が巻く。 思わず「引きずり込まれたい・・・」との欲望が沸き上がったが、何とか理性で抑えることができた。

宗像三女神(奥津島媛命、市杵島媛命、多岐津媛命)を祀ることから「女体の森」と呼ばれるそうだ。 よこしまな想像するのは私だけだろうが、それにしても小学校と「女体の森」って・・・

宗像神社

身延山に続く 身延道追分

日蓮宗総本山の身延山へ続く「身延道」追分。 身延道は、武田信玄が駿河侵攻の軍用路として整備したといわれている。 分岐点には大きな題目石や、「身延山道」道標が立つ。

身延山道標

興津一里塚跡

江戸日本橋から41里の興津一里塚跡。 興津宿の東木戸は、この付近にあったようだ。

興津一里塚跡

あんこ発祥の地 興津宿

興津宿は「あんこ発祥の地」だそうだ。 なぜ発祥の地なのかを調べると、あんこを作るための道具を発明した人がいて、「製あん発祥の碑」があるそうだ。

ところどころに街道の雰囲気を感じる家も残る。

興津宿

興津駅入口を過ぎると、問屋場跡といわれる興津宿公園。

興津公園

興津宿本陣・脇本陣跡

興津宿には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠が34軒あったが、本陣も脇本陣も残されてはいない。

興津東本陣跡
興津西本陣跡

東西本陣の中間あたりの道路反対側に、脇本陣であった水口屋がある。 現在は鈴与グループが所有し、一画を水口屋ギャラリーとして無料で公開されている。

一碧楼水口屋跡

不動滝と興津不動院

波切不動尊を祀る興津不動院へ寄り道する。 かつて津波がこの地を襲ったとき、この不動尊から一条の光明が発せられて津波を左右に分け、興津は被害を免れたことが波切不動尊の由来のようだ。

街道を右に折れ、不動尊踏切を渡って東海道線を越える。

不動尊踏切

参道を登ると茨原神社が鎮座している。 写真には写っていないが、左には津島神社もある。

茨原神社

神社の横には不動の滝。 湿ってはいるが、水は流れていなかった。 滝つぼを見ると、結構な流れがあったようだ。

不動の滝

不動滝前にある荷物運搬車を見て、不動院まで急傾斜を登る予感がしたので行くのをやめてしまった。

清見寺 家康が人質時代に学問をした

清見寺(せいけんじ)。 奈良時代の天武天皇の時代に、蝦夷に備えた関所「清見関」が設けられたが、鎌倉時代になると政治の中心が東国に移り衰退した。

その後足利尊氏や今川義元の庇護を受け、さらに徳川家康が今川義元の人質時代に学問をした寺だという。

国道1号に面した、高台に建つ清見寺。

清見寺

階段を上って総門へ。

清見寺

総門をくぐると、目の前は東海道線。 境内は東海道線に分断されている。

清見寺

清見寺本堂(左) 正面は庫裡。 清見寺は朝鮮通信使の休憩所として使われた。 また徳川家康が、今川義元の人質時代に学問を行った手習いの間などがある。

清見寺

この清見寺の前あたりが、興津宿の西見付があったようだが、現在は標柱も何もない。

興津坐漁荘

清見寺を後にして先に進むと、明治から昭和にかけての政治家で、立命館大学の創始者として知られる西園寺公望の別荘・坐漁荘(ざぎょそう)がある。

実物は愛知県犬山市にある明治村に移築され、この地の建物は平成16年に復元されたもの。

興津坐漁荘

訪れたときは結婚式の前撮りが行われており、邪魔してはまずい・・・と、あまり見学もせずに早々に切り上げた。

興津坐漁荘
興津坐漁荘

かつては この坐漁荘は古くからの景勝地である清見潟に面していたが、今は埋め立てられて海岸線は遠のいたようだ。

この日はもう少し先に進み、次の江尻宿を目指す。 ”江尻”という地名は知らなかったが、現在の清水駅付近で、かの大親分・清水の次郎長のテリトリーである。

果たしてどのような景色を見せてくれるのか?

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