江戸の日本橋を発ち、東海道を西に20里余。 品川宿から数えて9番目の宿が小田原宿である。
多くの旅人は、江戸から2泊目の宿として小田原宿に宿泊したが、これは天下の険「箱根山」越えを控え、英気を養うために泊まらざるを得なかったのだろう。
また小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名・北条氏(小田原北条とか後北条氏とも言う)の城下町として繁栄し、小田原城だけでなく、「総構」と呼ばれる大規模な土塁や堀など、城好きにはたまらない遺構も残る。
旅行日:2025年2月28日

【 小田原 酒匂川 】
- 日 付 : 2025年2月28日
- 宿間距離 : 平塚宿 ~ 大磯宿 27町 (2.9Km)
: 大磯宿 ~ 小田原宿 4里 (15.7Km) - 日本橋から: 累 計 20里27町(81.5Km)
- 万歩計 : 34,283歩
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
大磯宿を出発
明治の政界要人たちの別荘を横目に先に進み、血洗川という恐ろしい名のついた小さな川の横に、何かの石碑や石仏が置かれている。

旧吉田茂邸の手前で国道1号と別れ、しばし静かな旧道を歩く。

民家の家の前に残る井戸の周りに、古い石仏が集められている。

国府本郷一里塚跡
旧道と国道1号が並走する部分に、日本橋から17里目の国府本郷の一里塚跡がある。
ここの説明版によると、奥州藤原氏が一里ごとに笠卒塔婆を立てたのが一里塚の始まりで、織田信長が一里を36町と定めて塚を築き榎を植え、徳川家康はこれにならい、諸街道に一里塚を築くことを決めたそうだ。

越地の辻の地神塔
JR二宮駅を過ぎた旧道と国道の合流点に、大小の石碑石仏が集められている。 GoogleMapを見ると、「越地の辻の地神塔」となっている。

押切坂から小田原市へ
押切坂上の旧道分岐点にある、日本橋から18里の押切一里塚跡。 大磯と小田原の中間だそうだ。

旧道沿いの民家の庭先に「松本本陣跡」の説明版が立つ。 間の宿で「梅沢の立場」と呼ばれ賑わったとある。

国道1号との合流に向けて下る旧押切坂は、合流手前は結構な急坂である。

押切橋で中村川を渡ると、小田原市に入った・・・ と思ったらすぐにまた二宮町となり、再び小田原市へ。 市境が入り組んでいるようだ。

相模湾と石仏たち
海が近いので、国道沿いには津波浸水想定区間が表示されている。 東海道を歩いている間に、南海トラフ地震が起きないことを祈ろう。

相模湾が広がる。 遠く真鶴半島と、その背後に伊豆半島が伸びる。

車坂と呼ばれる緩い坂を下る途中に、「史跡車坂」の碑と説明版が立つ。

さらに進むと、大山道入口に「大やまみち」「従是大山道」と刻む大山道道標。 道標の上に彩色した不動明王を載せ、傍らには秋葉山燈籠や道祖神がある。

国道1号の路傍に立つ双体道祖神と坂下道祖神。 この先酒匂川を渡るまでの間、数体の石仏を見ることができる。

酒匂川を渡る
小田原宿の手前を酒匂川が流れる。
江戸時代に橋はなく、川越人夫が旅人を渡した「酒匂川渡し場跡」の碑が立つ。


新田義貞の首塚へ
酒匂川を渡り、鎌倉幕府を滅亡に追いやった新田義貞の首塚を訪れる。
千貫橋
途中「千貫橋」という名の古い欄干が道の両側に残る。 延宝7年(1679)に架けられた石橋で、石橋を架けるのに千貫もの費用が掛かったといわれる。
確かに古いが、本当にそんなに古いのか?

新田義貞の首塚
稲村ケ崎で黄金の太刀を投げ入れ、鎌倉に攻め入って鎌倉幕府を滅亡に追いやった新田義貞。
鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に、足利尊氏と対立して越前国で討死。 その首は京に送られ晒された。
しかし家臣の宇都宮泰藤が奪い返し、義貞の本国である上野国(群馬県)に持ち帰ろうとしたが途中病に倒れ、やむを得ず義貞の首をこの地に埋葬したと伝わる。

小田原宿に入る
小田原宿の江戸見附跡と日本橋から20里の山王原一里塚跡が、国道沿いに向かい合っている。

新宿交差点で国道1号を左折し、「かまぼこ通り」へと街道は続く。 人通りもなく閑散としているが、名前のとおりかまぼこ屋が並ぶ。

小田原提灯をぶら下げた「小田原おでん」。 静岡おでんは知っているが、「小田原おでん」とはどのようなものだろうか?

小田原宿に入ると、街道沿いに旧町名と説明を付した碑がいろいろ立っている。 「高梨町」の碑には、東海道と甲州路の分岐点と説明されている。

清水本陣跡
脇本陣古清水旅館の先にある清水本陣跡。 小田原宿は箱根の山越えを控えて賑わい、本陣は4軒もあった。
小田原宿の筆頭本陣を勤めた清水金左ヱ門家は、小田原北条家の家臣だったそうで、尾張徳川家や九州の細川家・島津家などが定宿とした。

旧街道が国道にぶつかる本町交差点角には高札場跡の碑が立ち、御幸の浜交差点には上の問屋場跡の碑が立つが、全体的に遺構らしきものは何もない。
小田原城に立ち寄る
御幸の浜交差点に到着したところで、今回の歩き旅を終了。 小田原駅に向かう途中、小田原城に立ち寄ってみる。
小田原城 銅門
桝形門といわれる形式の門で、「銅門」と書いて「あかがねもん」と読む。 大扉に使われた飾り金具に銅が使われていることに由来し、小田原城二の丸の正門である。

小田原城天守閣
戦国時代に関東一円を支配した戦国大名・北条氏の本拠地であった小田原城。
天守閣は元禄地震で倒壊したが、宝永2年(1705)に再建され、明治3年(1870)に廃城されるまで存在した。 現在は昭和35年(1960)に再建された、鉄筋コンクリート製である。

小田原は箱根観光の拠点として現在も賑わっているが、残念ながら宿場の面影は殆んど無く、観光客は小田原城を訪れている。
しかし小田原北条氏が豊臣秀吉との決戦に備え、小田原城と城下町を大規模な堀と土塁で囲った「総構(そうがまえ)」と呼ばれる、総延長9Kmにも及ぶ防御施設の跡が残る。
次回はいよいよ箱根越えであるが、その前にこの「総構」を訪れよう。
この「総構」は城好きしか訪れないような所で、妻など連れてこようものなら絶対にぶんむくれる。 一人で心行くまでウロウロ歩くチャンスである。
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