中山道 第42宿 妻籠宿(2) 「脇本陣奥谷」 一筋の光芒が描き出す幻想的な光のカーテン

南木曾駅から歩き始め、妻籠城址を過ぎると妻籠宿はもう近い。

明治25年(1892)に馬籠峠を迂回する道(現国道19号)が開通し、妻籠・馬籠の両宿は取り残された。 更に明治42年に名古屋・三留野間に鉄道が開通し、三留野が周辺の交通拠点となり、妻籠は一層寂れることになった。

しかし昭和40年代の高度成長期に、歴史的景観の街並みを守る運動に取り組み、 昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されると、宿場の趣きを色濃く残す有数の観光地へと生まれ変わった。

旅行日:2020年11月4日

【コースデータ】

区 間宿間距離日本橋から
2020年
11月4日
三留野宿妻籠宿1里半(5.9Km)80里8町(315.0Km)
妻籠宿馬籠宿2里(7.9Km)82里8町(322.9Km)
2020年
11月5日
馬籠宿落合宿1里5町(4.5Km)83里13町(327.4Km)
落合宿中津川宿1里(3.9Km)84里13町(331.3Km)
中津川駅大井宿2里半(9.8Km)86里31町(341.1Km)
合 計8里5町(37.9Km)
2020年
11月6日
明知鉄道で「岩村城」へ日本三大山城の一つで六段壁と女城主の城へ寄り道

(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる

目次

妻籠宿に入る

妻籠や馬籠は、中山道のハイライト区間として観光客、特に海外からの観光客が多く訪れている。 しかし今年は新型コロナウィルスの影響で観光客は少なく、静かな宿場風景を楽しむことができた。

妻籠宿は本陣・脇本陣各1軒と、旅籠が31軒だったそうで、北(江戸方)から下町、中町、上町と続き、枡形を挟んで寺下、尾又の町並みとなる。

妻籠城址から下って、恋野という集落を左右にカーブしながら街道を進む。 そしてカーブを曲がると「大吉」という宿が現れ妻籠宿の東の入口に到着である。

妻籠宿

鯉岩

「鯉岩」と呼ばれる巨岩。 鯉が滝登りをしているような姿をした石で、木曽路名所図会にも描かれていたが、明治24年(1891)の濃尾大地震で頭部が落ちてしまったそうだ。 鯉の姿は想像し難い・・・

妻籠宿鯉岩

熊谷家住宅

江戸後期に建てられた長屋の一部である熊谷家住宅。 内部が公開され、当時の農機具や生活用品など、往時の生活を偲ぶことができる。

妻籠宿熊谷家住宅
妻籠宿熊谷家住宅

口留番所跡

口留番所跡から街道を望む。 口留番所とは中山道を往来する旅人の人物改めや、物資の搬出入の監視を行っていたが、このような目線で睨みをきかせていたのだろう。

妻籠宿口留番所跡

下町から桝形までの町並み

恋野の坂を下ると「下町」である。 下町から桝形までの間が妻籠宿の中心で、本陣や脇本陣が置かれていた。

恋野の坂上に立つ高札場から、妻籠宿の下町を眺める。

妻籠宿

坂の途中にある水車小屋から高札場を見上げる図は、写真の定番スポットのようである。

妻籠宿

平日12時頃の妻籠風景。 外人客は勿論、日本人観光客の姿も少なく、静かな宿場風景を楽しむことができた。

妻籠宿
妻籠宿

上町にある妻籠郵便局。 「書状集箱」と書かれた黒いポストが立ち、実際に投函することもできるそうだ。

妻籠宿

桝形手前にある観光案内所。 明治の頃の洋風建築のようである。

妻籠宿

脇本陣 奥谷 光のシャワーが降り注ぐ

脇本陣・問屋を代々務めた林家(奥谷は屋号)は、昭和8年まで酒造業を営んでいた。 この林家の祖は、木曽氏の家臣で妻籠城の戦いに戦功のあった林六郎左衛門という人物だそうだ。

また島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」の嫁ぎ先で、明治13年には明治天皇巡行の際の小休所となり、歴史資料館が併設されている。

脇本陣奥谷

土間から上がり囲炉裏の間を見ると、扇状に広がって降り注ぐ見事な光芒に目を奪われた。 しかしコロナ対策で写真撮影は禁止。 時と共に移り行く光芒を撮るため、長居するカメラ好きが多いのだろう。

客は私一人だけだったので、案内の女性に「1枚だけ写真撮らせて・・・」とお願いしたが、やはり断られてしまった。 その代わりにと頂いたパンフレットから借用した写真である。

脇本陣奥谷

格子から差し込む光は、天候だけでなく、季節や時間帯など、いくつかの条件が揃ったときに見られるそうだ。 要するに日が低くなる冬至前後の昼頃が、差し込む日が一番長くなり美しいとのこと。

偶然の産物か はたまた計算して作られたのか? まさにプレミアムな光景である。

参考までに、訪れたのは11月4日の12時半頃で、実際に目にすることができたのは幸運であった。

妻籠宿本陣 島崎藤村の母の実家

本陣と庄屋を兼ねて務めた島崎家は、 文豪・島崎藤村の母「ぬい」の実家である。 「ぬい」は、隣の宿場である馬籠宿本陣の島崎家に嫁ぎ、そこで誕生したのが島崎藤村である。

明治維新後の宿駅制度廃止により、明治32年(1899)に建物は取り壊されたが、島崎家が所蔵していた資料を基に、平成7年に復元された。

妻籠宿本陣
妻籠宿本陣

大名などを迎えた上段の間も復元されている。

妻籠宿本陣

寺下から尾又の町並み

下町や上町には本陣や脇本陣があり、宿場の中心であった。 そして宿場中央付近に設けられた桝形から先には旅籠などが並び、庶民の暮らしぶりをうかがい知ることができる。

桝形付近

妻籠の中央付近に設けられた桝形。 右に下る石畳が旧街道である。

妻籠宿

桝形付近の町並み。 木曽らしい石置き屋根が見える。

妻籠宿

枡形の先に建つ「松代屋」。 創業は文化1年(1804)で、元は木賃宿であった。 石段を上がった先が、寺下の町並みである。

妻籠宿

寒山拾得

昭和59年(1984)の長野県西部地震で崩れた石垣から発見された、「寒山拾得(かんざんじっとく)」の石仏が祀られている。

テレビの「なんでも鑑定団」で「寒山拾得」が描かれた掛け軸を見たことがあるが、中国・唐の時代に実在した2人の僧の名だそうだ。

寒山拾得

寺下の町並み

桝形を抜けると寺下の町となる。 昭和44年(1969)から開始された妻籠宿の保存・復元事業で、最初に復元されたのが寺下の町並みだという。

左手の高台に光徳寺があり、この寺の下なので「寺下」なのだろう。

妻籠宿

つっとこ

藁で柿を包んだものが吊るされている。 昨年11月に野尻宿でも、同じようなものを見た。

渋柿の皮を剥かずに藁でくるみ、甘く熟すのを待つ「つとっこ」というもので、秋の風物詩だそうだ。

つっとこ

上嵯峨屋

上嵯峨屋は昔の木賃宿の雰囲気を今に残している。 木賃宿とは食事の自炊や寝具持参が基本で、薪代 つまり木賃を支払う庶民向けの宿である。

本陣や旅籠に比べて質素な造りが特徴で、江戸時代の一般的な旅人の暮らしぶりを知ることができる。

上嵯峨屋

寺下の町を振り返る。 町並みを守るために、家や土地を「売らない・貸さない・壊さない」という3原則を掲げた住民憲章を宣言し、復元・保存への取り組みが見事に実を結んでいる。

妻籠宿

尾又にある妻籠発電所。 アールデコ調の建物外観と木製の黒塀に囲まれ、周囲の景観を壊さないようにしているようだ。

妻籠発電所

大きな藁の馬が飾ってあった。 藁馬実演販売の看板が下がっていた。

妻籠宿

尾又の町並みも途切れ、やがて国道256号にぶつかると妻籠宿とお別れである。

お土産屋などを営む方には申し訳ないが、思っていた以上に人が少なくて、ゆっくりと楽しむことができた。 特に脇本陣奥谷では、囲炉裏の間に差し込む光芒を目にすることができたのは幸運だった。

次は秋の馬籠峠を越え、木曽路最後の宿場である馬籠宿を目指そう。

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