日本橋から中山道をコツコツと歩き、木曽路を抜けて美濃国へと足を踏み入れた。 この美濃国は戦国時代の史跡の宝庫で、街道を外れてでも訪れたい場所がたくさんある。
さっそく街道を外れて向かった場所は、日本三大山城の一つ「岩村城」である。
織田信長や武田信玄の思惑が激突し、森蘭丸ら歴史の主役たちが名を連ねるこの城には、苛酷な運命を背負った「女城主」の、切なくも壮絶な物語が眠っている。
戦国の熱気が色濃く残る石垣の城砦と、趣ある城下町へ。 街道歩きの足を止め、歴史好きの心を捉えて離さない名城と城下町の探訪記である。
旅行日:2020年11月6日
明知鉄道で岩村へ
中山道妻籠宿から大井宿(恵那市)までを1泊2日で歩き、さらに1泊して岩村城を訪れる。
明知鉄道はJR恵那駅に隣接したホームを始発として、終点の明智までを結んでいる。 地元では「あけてつ」と呼ばれているらしいが、鉄道の名と終着の駅名は、読みは同じ「あけち」だが、漢字表記が異なっている。

終着の「明智」の町は、戦国武将「明智光秀」ゆかりの地といわれ、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のラッピング電車がやってきた。

1両編成の列車には、多くのシニア世代の観光客で座席は埋まっていた。 30分ほどで岩村に到着したが、下車したのは5人だけ。 「麒麟がくる」に影響されたのか、殆どは明智の観光に行くようである。

方丈記を書いた「鴨長明」の塚
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 有名な鴨長明の随筆「方丈記」の冒頭である。
岩村城に行くためタクシー営業所に行くと、驚いたことに向かいに「伝 鴨長明塚」があった。
説明版によると、「衆人の前で秘曲を披露して鎌倉を追われ、岩村で半年を過ごした後に病を得て入寂した」とあった。 いったいどの様な「秘曲」だったのだろう???

日本三大山城 岩村城へ
駅前から見える城山山頂に岩村城址がある。 日本百名城の一つに数えられ、さらに大和の高取城 (奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並ぶ、日本三大山城とも云われている。 標高717mの高さに築城され、高低差180mという地形を生かした要害堅固な山城だったという。
鎌倉時代初期に築城され、戦国時代には織田信長と武田信玄による争奪戦に巻き込まれ、江戸時代には岩村藩の城となった。
駅から岩村城本丸下の駐車場(出丸)までタクシーを利用。 本丸防衛を担う重要な曲輪は、今は駐車場となっている。
この出丸跡から本丸石垣の下を通って本丸に向かう。

本丸入口の二つの門
タクシーでいきなり本丸下に来てしまい、それも裏口に相当する門から登城することになってしまった。 普通は登城口から本丸目指して上ってくるが、この登城道沿いの遺構は下城時に見ることになる。
本丸埋門跡
二の丸から本丸に入る門である埋門(うずみもん)。 本丸の北に位置する裏門にあたり、石垣が「野面積み」や「打込ハギ」など3種類の積み方になっているそうだ。
埋門とは城の石垣や土塀などの下部に設けられた、目立ちにくい城門のことだという。

本丸石垣と埋門を振り返る。

本丸長局埋門
本丸長局埋門(ながつぼねうずみもん)は本丸の表門だそうだ。

両側の石垣の上に多聞櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門であった。

門を入った内側の細い曲輪は「長局(ながつぼね)」と呼ばれていたという。 右は「本丸上段」の石垣。

岩村城本丸 本能寺の変の前に光秀と共に訪れた
この地は古くから軍事・交通の要衝で、戦国時代はこの城をめぐって美濃の織田と、甲斐の武田が激しい攻防を繰り返したという。 本丸は標高717mの山頂に位置するので天守の必要はなく、納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟が構えられていたそうだ。
岩村城本丸。 右の旗の下に車が停まる広場が出丸である。

本丸にある「昇龍の井戸」 山頂にあるが、井戸が枯れることはなかったという。 岩村城内には17ヵ所も井戸があったそうだ。

織田信長が岩村城に入城したことの説明版が置かれていた。

天正10年(1582)3月11日、織田信長は甲州(武田)討伐のため明智光秀を伴い岩村城に入城した。 おりしもこの日、武田勝頼は天目山目指して敗走の途中、信長家臣の滝川一益と最後の一戦を交え負死。 3日後の13日、岩村城滞在中の信長に武田家滅亡の一報が入った。
そして これより80日余り後、信長は明智光秀の謀反により本能寺で自刃。 49歳の生涯を閉じた。
【岩村城本丸の説明版より抜粋】
岩村城のシンボル「六段壁」
岩村城最大の見どころは、ひな壇状に築かれ六段の石垣である。 「六段壁(ろくだんへき)」と呼ばれ、急峻な地形に石を積むことの工夫によるものだという。
元々は最上部のみの高石垣だったが、江戸時代に崩落を防ぐため、「犬走り」と呼ばれる細い通路のようなものを設けて、下段に継ぎ足しを繰り返してできたものだという。



霧に包まれた早朝には、雲海に浮かびあがる幻想的な石垣を見ることができるようで、「霧ヶ城」とも呼ばれているそうだ。
信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」
織田信長の叔母にあたる「艶(おつやの方)」は、信長の命により岩村城主「藤山景任」に嫁いだが、景任が病死したことにより、おつやの方の悲劇は始まる。
信長は五男の御坊丸をおつやの方の養子として送り込んだが、まだ幼少のためおつやの方が城主を務めることになり、ここに岩村城の女城主が誕生したのである。

岩村醸造特別本醸造「女城主」ラベル
やがて武田信玄が差し向けた秋山虎繁により包囲され、おつやの方は虎繁との結婚を条件に武田軍に下る。
さらに養子である信長の五男「御坊丸」は人質として甲府に取られてしまい、これを知った信長は激怒。 岩村城を攻め、約半年の戦いの末に岩村城は落城した。
その後、夫である虎繁とおつやの方は岐阜に送られ、長良川の河川敷で逆さ磔(はりつけ)という、むごい刑に処された。
おつやの方が処刑されるとき、「叔母を処刑するとは、いつかは因果の報いを受けるであろう!」と、信長に対して叫んだという話もあるようだ。 本能寺の変で信長が自刃するのは、この7年後である。
ちなみに「逆さ磔」の刑を調べると、逆さに磔られて三日三晩苦しみ抜いた末、体中から血を吹き、目玉まで飛び出した見るに堪えない姿で絶命するという、磔の中でも最も残酷な方法だそうだ。
森蘭丸も城主を務めた
織田信長の側近中の側近といわれた森蘭丸は、18歳で岩村城5万石の城主になったといわれる。 しかし信長の小姓としての仕事があるため城代を派遣。 生涯岩村を訪れることはなかったそうだ。
岩村城を下城する
不精してタクシーで登城してしまったが、帰りは岩村の城下町を目指して歩いて下城する。 歩いて登ったら一汗かきそうな石畳の坂を下り続けるが、まさに山城であることがよく判る。
岩村城には本丸だけでなく、多くの石垣が残されている。 恵那市観光協会のHPによると、その総延長は1.7Kmで、4万個の石が積まれているという。

追手門跡と畳橋
「八幡曲輪」や「竜神の井戸」などを見ながら下ると、第三の門である追手門がある。
追手門の脇には城内最大の建物だったといわれる「三重櫓」が置かれ、追手門手前の空堀には畳橋と呼ばれる木橋が架かっていた。
畳橋はL字型に架けられ、床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたと説明板にあった。

大手一の門跡
第二の門である土岐門を過ぎると一の門跡が現れる。
藩主邸からの登城道の最初に設けられた門で、2層の櫓門と内側には番所が置かれたとある。

藤坂と呼ばれる石畳の道を下り続ける。 普通は下から登城するので、標高差約180mの山登りであるが、今回は逆なので楽であった。

太鼓櫓と表御門
石畳が途切れ、舗装路に出て下り続けると、太鼓櫓と表御門が復元されている。 階段を上がり表御門を潜ると広い広場となり、藩主邸跡だという。

岩村城といえば「六段壁」が有名なので、写真などで多く紹介されている。 しかし実際に訪れると、六段壁だけでなく多くの石垣が残り、そのスケールの大きさに驚く。 石垣だけではあるが、日本百名城に名を連ねていることに納得の城である。
このように何となく「武骨な山城」といったイメージを持つ岩村城だが、戦国時代の波に巻き込まれ、無念の最後を遂げた女城主の「おつやの方」の話を知ると、その城が持つイメージも変わってくるような気がする。
岩村城を後にして、次は城下町の散策である。
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