木曽福島から歩き始め、上松宿を通過。 次の須原宿を目指す。
次の須原宿までは13Kmほどの距離があるが、電車の都合で目標を変更。 倉本駅まで歩いて終わりにすることにした。 そして 時間的余裕が生まれたら、「のんびり・たらたら」と歩きの速度はシフトダウンしてしまった。
旅行日:2019年10月31日~11月2日
【 コースデータ 】
| 日付 | 区 間 | 宿間距離 | 日本橋から | |
| 2019年10月31日 | 藪原宿 | 宮ノ越宿 | 1里33町(7.5Km) | 67里15町(264.8Km) |
| 宮ノ越宿 | 福島宿 | 1里28町(7.0Km) | 69里7町(271.7Km) | |
| 2019年11月1日 | 福島宿 | 上松宿 | 2里14町(9.4Km) | 69里7町(271.7Km) |
| 上松宿 | 倉本駅 | 3里09町(12.8Km) | 71里21町(281.1Km) | |
| 2019年11月2日 | 倉本駅 | 須原宿 | ||
| 須原宿 | 野尻宿 | 1里30町(7.2Km) | 74里30町(293.9Km) | |
| 合 計 | 11里06町(43.9Km) | |||
(注)宿間距離は「宿村大概帳」(江戸末期)を参考としたもので、現在の道路距離と異なる。
上松宿を出発
上松宿は度々の火災に襲われ、昭和25年(1950)の大火で大半を焼失した。 かろうじて焼け残り、古い家並みが昔の面影を伝える上町を抜けて須原宿に出発する。 上町を抜け、仲町・下町と続くが、こちらはすっかり新しい町に生まれ変わっている。
下町交差点を左に折れ、曲がりくねった寺坂を上がり、上松の町を振り返る。

尾張藩直轄材木役所跡碑
上松小学校の土手にある斎藤茂吉の句碑や島崎藤村文学碑を見て進むと、「尾張藩直轄材木役所跡碑」が立つ。
尾張藩が荒廃した木曽の山林を見て、木曽代官・山村氏から山林の管理業務を取り上げ、尾張藩直轄として材木役所を置いたそうだ。

見帰集落の長閑な街道を進む。 集落名は”みかえり”と読むかと思ったが、バス停には”北みかり”とか”南みかり”とあった。

「たせや」と「越前屋」
やがて寝覚集落に入ると、「たせや」と「越前屋」が街道時代の茶屋そのままの姿で現れる。 「たせや」は茶屋本陣を兼ね、「越前屋」は国内で3番目に古い蕎麦屋だという。
手前が「たせや」で、奥が「越前屋」である。 「たせや」は茶屋本陣を兼ねたので、現在も上段の間が残るそうだ。


「越前屋」は寛永元年(1624)創業の”寿命そば(蕎麦切り)”の老舗で、十辺舎一九の「続膝栗毛」や藤村の「夜明け前」にも出てくるという。

寿命そばを食べて寝覚の床へ
越前屋は国道沿いに下った場所で、現在も営業しているという。 せっかくなので”寿命そば”を食べて、寝覚の床へ寄り道することにした。
「たせや」と「越前屋」の間の道を国道19号に向けて坂を下り、国道に出たところで現在の越前屋が営業している。

”寿命そば”の大盛を頼んだが、せいろが1枚で「これで大盛??」と思ったら、後からもう一枚持ってきた。 都合2枚のせいろで、本当に大盛だった。

浦島太郎の釣り竿と寝覚の床
満腹となった腹を抱え、浦島太郎の伝説が残る臨川寺と寝覚の床を訪れる。
竜宮城から帰った浦島太郎が「なぜこんな山の中に?」と思うが、臨川寺のパンフレットにはそれらしい説明が書かれていた。
臨川寺山門。 正式には寝覚山臨川寺という。

臨川寺宝物館には、なんと「浦島太郎の釣り竿」が飾られていた。 浦島太郎の絵によく出てくる、竹1本の”のべ竿”である。 残念ながら玉手箱は無かった。

浦島太郎の釣竿を展示する臨川寺のパンフレットによると、竜宮城から戻った浦島太郎は放浪の旅の末、木曽の山奥にたどり着いた。
木曽川のほとりで釣りなどして暮らしていたが、ある時里人に竜宮城の話をして、思わず玉手箱を開けてしまうと、齢300歳の老人へと姿は変わってしまった。
そして夢から覚めた気持ちになり・・・ ということで、この地が「寝覚の床」と名付けられたと伝わる。
( 寝覚山臨川寺パンフレットより抜粋・要約 )
臨川寺境内から、木曽川の河原に下ると寝覚の床の景観が広がる。 木曽川の激しい流れが巨岩を削ったものだ。

この岩の上で、浦島太郎は玉手箱を開けたのだろうか?

木曽駒ケ岳を眺める
寝覚の床から再び街道に戻ると、街道正面に大きな木が聳える。 多くの旅人を見守ってきたのだろうが、洪水で流されてきた桂の苗木が根付いたと伝わるそうだ。

上松中学の付近から、雄大な木曽駒ケ岳を眺める。
厳密にいうと、上松側から木曽駒ケ岳(2956m)は見えないそうだ。 写真左側の少しなだらかな山は麦草岳(2733m)。 右は木曽前岳(2647m)で、木曽駒ケ岳はこの木曾前岳に隠されてしまっている。
下から稜線に向けて一直線に突き上げる沢は、滑川の源流「北股沢」である。

国道から見える小野の滝
上松中学を過ぎると、街道は滑川に向かって石畳の下り坂となる。

石畳を下り県道に合流すると滑川橋である。 下を流れる滑川は、上の木曽駒ケ岳の写真で、稜線に突き上げている北股沢から流れ下っている。

小野原集落を抜けて中央本線沿いに坂を下り、中央本線のガードを潜り、すぐに左折して民家の庭先を通るのが旧道である。 しかしすっかり失念して道なりに進んでしまい、国道19号に合流してしまった。
国道19号に合流したすぐ先で、中央本線の鉄橋奥に”小野の滝”が飛沫を上げている。 広重・英泉合作の中山道六十九次の浮世絵にも描かれ、昔から知られた名所だそうだ。

くるみ坂を下る
荻原一里塚跡
国道19号から左に旧街道が分岐するところに、日本橋から73里の荻原一里塚跡の碑が立つ。 江戸から73里で、塚には榎が植えられていたが、今は榎も塚も残されていない。

荻原集落を抜けて再び国道に合流し、しばらく国道を歩くと左に分岐して串ヶ下集落に向かう旧街道に入る。
中央本線沿いの静かな道は徐々に高度を上げ、眼下に大きなグランドを眺めながら進むと、やがて民家の庭先や土蔵の前を通り抜けていく。 家はだれも住んでいないようだった。


道は草道となり、「くるみ坂」と呼ばれる坂を、木曽川を眺めながら徐々に下っていく。

最後は中央本線の擁壁上の踏み跡をたどり、ガードを潜って国道19号に合流する。

立町集落へ
立町歩道橋で国道の反対側に渡り、立場があった立町集落に入る。 街道沿いの各戸には往時の屋号が掲げられ、静かな街道らしい風情が残る。

国道に合流する手前で、右手に木曽川に架かる「諸原橋」が見えた。 対岸の集落と結ぶ吊り橋だが、通行禁止ではなかったので現役なのだろう。
なるべく揺らさないように橋の中央付近まで歩くと、ギシギシと揺れて吊り橋らしい感覚が足元から伝わってきた。

倉本駅
倉本駅手前に、国道から駅方向に向かう道が旧街道だという。 線路を越えて倉本集落へ続いていたそうだが、現在は線路に遮られて通行できない。 この道がそうだろうか?

中央本線倉本駅到着。 ローカル色豊かな駅である。

昨日に続き、この日の宿も木曽福島である。 17時までに宿に入るため、倉本駅でこの日の歩き旅は終了とし、駅前を通るコミュニティバスを利用して木曽福島に戻ることにした。
乗客は私だけ・・・ のんびりバスに揺られて、この日に歩いた道を思い返しながら木曽福島に戻った。
昨日は木曽福島の「おん宿 蔦屋」に宿泊したが、この日は予約が取れず、「さらしなや」にお世話になった。

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